見出し画像

「失われた時を求めて」と「プルーストを読む生活」を読む 12

失われた時を求めて

2巻、246ページまで読んだ。この本を読んでいて戸惑うのが、昔のパリの冗談も流行もわからないとき。一体どういう気持ちで読めばいいのか。19世紀後半のフランス・パリ通でなければ理解できない地名、人名、店の名前、ファッション、思想、俳優、演目、音楽、絵画などが本文のそこら中であちこちと散りばめられている。

作中に挙げられる名前は実在の人物も登場し、演目も現実に存在する舞台ばかりで、一つずつ注釈を読みながら「へー」と思うだけ。本文内ではそれが常識かのように語られるだけに、なかなか距離を感じる。詳しい人や当時の人が読めば、きっと楽しいのだろう。反対にプルースト研究や当時のパリを知るにあたって、こういう部分から入る人もいるだろう。

プルーストは、無教養な人間への恨みを込めて醜く描いているのだろうか?というぐらいに社交界士スワンを立て、ヴェルデュラン家のサロン集う人々を滑稽に描き、罵り倒す。それでいてスワンは本当に、キャバ嬢に貢ぐ成金のおっさんに見えてくる。

オデットの嘘について。真実のなかに嘘を混ぜることで、全体をあたかも本当のことかのように思わせる嘘のつきかた。これは巧妙なようで、実は危ういという話が出てくる。真実の部分と嘘の部分の矛盾から、すぐにほころびが生じてバレてしまう。「失われた時を求めて」が書かれたのは1913年からで、この手の話がもう100年以上前から言い古されてきたんだな。いまだに嘘をつくときの常套手段だと思う。

では、うまい嘘のつき方ってなんだろう?うまいとは、つまり嘘が嘘だとバレない嘘のつき方ということになる。オデットのケースだと、スワンが家にきたとき別の男がいて、応対せず寝ていたフリをした。しかしオデットは「気づいて後を追いかけた」と言った。こういうときは、「知らない、気づかなかった」ぐらいが適当なのか。うまい嘘ってどんな嘘だ。多くを語らないほうがいい気はする。

オデットを気に入るフォルシュヴィル伯爵が登場してから、もうずっと嫉妬に狂うスワンが描かれている。オデットとフォルシュヴィルの間で実際に何が起こっているのか、スワンの視点ではなかなか語られない。しかし逆上したスワンから本心、サロンの人々全体を見下す本性があらわになる。

それでもスワンはオデットをあきらめず、オデットが遠出するのを後をつける計画を立てたりする。もうスワンには全く余裕がないように見えつつ、そういうのも全部含めた恋愛を、退屈しのぎとして、日常を彩る刺激として満喫している風がまだある。こんなに客観的でいられるだろうか。語り手の目線が客観的なだけだろうか。金も地位も名誉を得てしまった人は、それほどまでに冷めきっており、日常が退屈なのかもしれない。

プルーストを読む生活

64ページまで読んだ。「失われた時を求めて」を読み進めないことには「プルーストを読む生活」を進められないというこの行いの性質上、「プルーストを読む生活」は牛歩のように遅々として進まない。

同時に読んでいるため、「プルーストを読む生活」の方を先に読んでしまうと「失われた時を求めて」の軽いネタバレに遭遇してしまう。恐る恐る進めている。今日も「スワンの恋が終わってしまった」という文字を見かけて速やかに閉じた。

著者が、舞台や講演、ライブに行く話が出てくる。東京で行きやすいにしても、活発、活動的だなと思う。興味の幅が広いというか。僕は全然そういうのに行かなくて、せいぜいときどき映画館に行く程度。子供の頃は甲子園球場へ野球の観戦に行ったこともあったけれど、タダ券がもらえたから行っただけで、野球は見てもわからないし、雰囲気だけ味わっていた。

きっと親だったり周りの友人の方が、いろいろ活発だと思う。自分はそういうのを喜ぶ質ではなかった。僕が個人的に喜んでやっていたことは、旅行ぐらいか。あとはだいたい自宅に引きこもっている。特に交友とか交流といったものは、ほとんどない。実に興味の幅が狭く、一緒にいてもつまんない人間だなと思う。そうやって自分自身に対して悲観的な態度をとるのもつまんない人間の特徴だ。

年の瀬についても触れられていた。僕がこれを書いているのは10月15日だから、まだまだ年の瀬とは言えない。それにしても、昔から年の瀬の実感というのがあまりなかった。周りに合わせてはいたものの、自分にとっては年末年始よりも、7月末の、夏が終わる時期の方が感慨深かった。

7月末を過ぎると、これからどんどん暑さは増していくが日が短くなり、待っていた夏が終わりに差し掛かり、暗い気持ちになる。暦的に本当は夏至だけど、夏至は梅雨で実感湧かない。7月末は、自分にとって一年の盛り上がりのピークであり、それを過ぎるとあとはずっと下り坂。そういう印象が強い。7月末が過ぎてから、気分が盛り上がるようなことはあるだろうか。それに比べれば、年末年始なんてただの記号でしかない。

ただ夏という季節に特別な思い入れがある。理想としては常夏の地域に住みたい。きっと夏の暑さだったり、陽気によって、自らに内在する暗さを補おうとしているのだと思う。

著者はプルーストのWikipediaも読んでいないそうだ。「失われた時を求めて」のネタバレを防ぐためらしい。このあたりは僕と全く同じ。著者は「収容所のプルースト」という本を読んだとか。僕は読んでいない。僕がプルーストについて知っているのは「リトル・ミス・サンシャイン」という映画でプルースト学者のおっさんがプルーストについて語っていたことぐらい。この話は前にも書いた気がする。

サポートいただけると店舗がその分だけ充実します。明日への投資!