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”伏線”のあり方

 

この作品、ラストの伏線回収がやばすぎるんです!!!

 ふーーーん。。。
 最近の伏線回収に重きをおいている作品に違和感を覚えるのは、私だけでしょうか。
 もちろん、伏線回収を作品の中で行うことは良いんです。むしろ、頭いいなーとか思って尊敬しますねぇ。

 私が違和感を覚えるのは、”伏線回収がやばい!!”という売り文句にあります。

 私が思うに、作品の中における伏線とは、玄関においてある靴そのものでしかないと思うのです。
 ただいまー!と家に帰って靴を脱ぎます。次の日、いってきまーす!と昨日抜いだ靴を履いて家を出ます。
 伏線もこれと全く同じであってほしいなと私は思うのです。

 みなさんがイメージする伏線回収とは、物語冒頭にわざとらしく置かれてある、その時は意味がわからないもの(伏線を張るという)の正体が物語後半で明らかになるようなスタイルのものだと思います。

 物語序盤の伏線を張る段階でわざとらしくフォーカスを置いてみたり、後半の伏線回収の場面でその伏線が張られているシーンを回想として再度描くという”伏線回収してまっせ!!”みたいなドヤを感じてしまうと、どうも作品に入らないんですよね。

 それに対して作品の受け手が「伏線回収がやばかった!!」と発信してしまうと、この作品、伏線回収しかないんかと思ってしまい、作品に触れようと思わなくなってしまうのです。私はねー。

 作品において重要なのは、伏線を回収しているかどうかではなく、物語そのものなのかなと私は思っています。私は、物語における感動や驚きを求めています。

 だからこそ、私が望む”伏線”とは、家に帰って脱ぐ靴のように、いかにも自然で、注目すらされないように、そっと置いてほしいのです。
 伏線回収の場面でも、家を出るときに靴を履くときのように、誰にも注目されず、かつ自然で当たり前の因果関係を成り立たせてほしいのです。

 もちろんこんな事を言っている私は作品を創作したことがないので、何を偉そうにとお思いの方もいらっしゃると思います。まさしくそのとおりですね。

 まぁ、こんな意見もあるにょっていうのを気にしてくれたら嬉しいです。

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