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ムダ話。〜勉強とは〜

学生が勉強を続けられるのは、朝起きて学校に行くと勉強することになっているから。

みんな勉強は嫌いだけど、みんなやってます。みんな(一人ひとり)がみんなやっているように感じているから、やらなくちゃいけないという同調圧力じみたものがカラダにのしかかっています。


それは苦痛でもあれば、効率的な学習環境でもあります。

その中に入れば、自分の重たいカラダを無理やり動かせます。無理やり動かせるハードルが下がります。


ところで、勉強ができるとは何なのでしょうか。

勉強 = 情報処理能力

だとします。

あらかじめ用意されている1つの答えをいかに短時間で導き出せるかの力です。この能力が早いと、会話の速度も上がり、理解能力も上昇し続けます。
僕は、この能力を否定し続けていました。なぜかというと、情報処理能力が無かった頃の自分を思い出せなくなって、問題提起する力を忘れてしまう気がしたからです。例えば、進学校の生徒は頭が固い気がしたんです。目の前の勉強はめちゃくちゃデキるけど、社会へのアンテナを貼っていなかったり、自ら問題を見つける目が養われていない状態に陥ってしまっていると確信していました。

今では、そんな尖った発想は間違いだと昔の自分に言い切れます。


これまでの僕が理想を掲げていた能力を言語化すると、「情報編集力」というやつらしいです。レゴブロックでお城を作るように、使えるブキだけで自分の答えを生み出す力、また問題そのものを作ってしまう能力のこと。


結局は

この情報編集力も、情報処理能力が高くないと前に進まないし、圧倒的に情報処理をこなした人間(研究者)が、問題を生む側に回ったりするし、世界はぐちゃぐちゃです。

ぐちゃぐちゃと言ってしまうと希望がないので、「どっちも必要」と言っておきます。


情報編集力はみんなが感じているように絶対必要だし、答えを早く導き出す情報処理能力も生産性を上げて、自分が生きている間にある程度終わらせるには必要な能力です。


無駄な能力なんて何もないし、「無駄そのものに意味がある」時代には、兎にも角にも立ち止まらないことが大事な気がしてなりません。

たまには、こうやって頭が整理できていないまま、書き下すこともやって、ぐちゃぐちゃ文章に浸らせてやろうという魂胆です。


では、また。


今日も東京の片隅で、非生産的なことを非効率的に行っております。