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【#166】痛い目をしながら

若気の至り 

 30代の頃は、委員会報告書、案内、チラシ、企画書などを作成する時、自分のケアレスミスに気づいても、1箇所ぐらいであれば、そのまま委員会メンバーに確認をお願いしていました。どうして気づいているミスに、修正をしなかったのかと思われるでしょうか。その理由はミスのない完璧なものを出すと、確認をしてくれた諸先輩たちの中には何も指摘することがなくなるからか、重箱の隅を突付くようなご指摘や、「今さらそれを言われても」という「そもそも論」的な返信があるからです。

 大学生の頃、教会堂建築のお手伝いをしていた時に、元宮大工だった方から完璧主義に陥らないようにという意味を込めて、左甚五郎(ひだり・じんごろう)の話を聞いたことも一つの教訓として残っています。(参照「左甚五郎の忘れ傘」)私の場合、左甚五郎のように「わざと何かを忘れる」というような、わざとミスをしているわけではなく、気づいた自分のミスをそのままにして確認してもらっているというものでした。今から思うと、30代ですが若さゆえの青臭さ、若気の至りが多分にあることは否めませんね。

ブラジルの方まで

 その後、40代、50代になって、ミスに気づいても修正をしないままにしておくということが無くなりました。何故かと言いますと、自分のミスに気づかなくなっているからです。自分で確認をしてミスを修正しても、皆さんに確認をしてもらうと、思わぬミスがいろいろと出てくるようになりました。

 今週、私が責任を持っている働きで、多くの方々にメールを出さなければならない案件がありました。同じような内容の文書ですが、宛名を代えて、その人に合うような文面にアレンジをして、何十通とメール送信をしました。その中で、ある方の名前を「◯川」なのに「◯村」としていたのです。ご本人から名前が異なっている旨の返信があり、お詫びのメールを致しました。名前を間違ってしまうのは、当人にとっては人格に関わることなので、本当に申し訳ない思いでいっぱいです。そしてもう1つ、別のミスもありました。自分が情けなくて、穴があったらブラジルの方まで落ち込んでいきたくなるような思いでした。

 40代、50代でこんなミスをしていたら、この先どうなるのだろうかと思うのと同時に、自分のミスが増えるに連れて、少しずつ他者のミスに対する寛容度も広げられているような感じもしています。寛容にならざるを得ないというのが、偽らざる実感です。ついつい偉そうになってしまう私は、少し痛い目をして自分の情けなさを知らされることを通してでなければ、私の中に謙虚さというものが培われないのでしょう。もちろん、神様の御手の中で。

 さあ、明日は11月最初の主日礼拝です。ミスも罪も全くないお方が、最も低くなって私たちのところに来てくださいました。そんな主イエスのもとで安息を得て、心優しくへりくだったお方を見上げます(マタイ11:28-30)。

今日も主の恵みと慈しみが、追いかけてくる1日でありますように。

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