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【#226】うなずいてくださるお方(メッセージの断片集71)

3月24日(日)の様子

 この日は、パーム・サンデーです。美味しそうな名前ですが、パームというのは、聖書で言う「なつめやし」のことで、あまり使わない言葉ですが「棕櫚」とも訳されています。主イエスが十字架につくため、エルサレムに小さいロバに乗って入城された時、群衆がなつめやしの枝を持ってイエスを歓迎したことにちなんでいます。この日は受難週(Passion Week、聖週間 Holy Week)の始まりとなります。礼拝では主イエスの十字架を共に仰ぎました。

 礼拝後は、第12回一食断食祈祷聖会を持ちました。1年に2度ほど計画をしています。断食と言っても一食ですし、主イエスの受難に比べると申し訳ない程度です。2時ぐらいまでの祈りでしたが、私自身、多くのことを主から示さるひと時となりました。やはり祈らないと分からないことがあります。祈ることで見えてくるものがあります。主に祈り続けることで、主の思いを深く知ることができ、静かに内側が満たされていきます。(以下は礼拝メッセージの断片集です)

▲ 画像をクリックするとメッセージのエッセンスを250字で読むことができます。

全身全霊で礼拝を捧げる

 主イエスは十字架の上で「わたしは渇く」と言われました。のどが渇いということではありません。ヨハネの福音書では、「渇く」という言葉と「礼拝」は密接に関わっています(4章、7章)。つまり主イエスが十字架の上で「わたしは渇く」と言われたのは、神に礼拝を捧げておられたということです。「私の魂を満たすのは父なる神よ、あなただけです」と、全身全霊で神に礼拝を捧げておられるのです。

 同時に十字架の上で主は「わたしは渇く」と言われながら、私たちに教えているのです。全身全霊で神を慕い求め、礼拝を捧げる時、神はあなたを裏切らない、あなたを満たすことができる、私を通して生ける水があなたに流れ出てくる、聖書の言葉が成就するということを。

罪の赦しが完了した

 主イエスは、十字架の上で「完了した」と言われました。何が完了したのでしょうか。それは罪の終結宣言です。十字架によって罪が支配する世界が終ったという勝利の宣言なのです。また、救いの完結宣言でもあります。新共同訳では「成し遂げられた」と訳されています。神の意志である救いが、十字架によって完全に成就されたのです。
 30節の後半に、「頭をたれて、霊をお渡しになった」と描かれています。この「頭をたれて」とは、どういう状況でしょうか。よくドラマなので見る、人が息を引き取る時にガクっとなるということでしょうか。

 バッハのヨハネ受難曲では、この頭をたれたことを、主が「うなずかれた」と理解して、バスが独唱するそうです。芸術家の信仰的感性ですね。私たちが様々な思いをもって、主の十字架に佇む時、そこで主はうなずかれるのです。首を横に振るのではなく、主イエスは黙って首を縦に振ってうなずかれ、私たちの全てを受け入れたくださり、罪の赦しを宣言されるのです。だから、自分の人生にどんなつらいことがあっても、首を横に振って「こんな人生は嫌だ」「もう駄目だ」と言わなくてもいいのです。主イエスと共に「アーメン」と私たちもうなずいて生きる道を主イエスが開いてくださったのです。

今日も主の恵みと慈しみが、追いかけてくる1日でありますように。

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