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50歳のノート「自分自分自分の人と私」前編


離婚直後の30歳ごろから私の目の前に現れる人は一方的に自分の話をした。
それは突然起きる。
スポーツクラブでマシンを使っていると、突如、ぽっちゃりした女子に話しかけられた。
自分は痩せたい、だが過食嘔吐していて…と血走った目をして話し続ける。
え…どういう…なぜ私に…という疑問をよそに彼女は話し続ける。さすがにと思い、トイレに立つと喋りながらついてきた。さっとトイレを出て撒こうとするとまだついてくる。「マシンがわからなくて使えなくて、でも自分は頑張ってるんだ」という話になったので通りがかりの顔見知りのコーチを捕まえて「あのマシンの使い方がわからないそうですよ」と言うと彼女の方を向いたコーチに突進していった。その隙に施設を後にする。

こんな感じでそれは続いた。
咳が止まらなくて総合病院の呼吸器科で順番待ちをしていると60代くらいの女性が「ちょっと来て!」と私に言う。え? 看護師さんじゃなくてなぜ私? と固まっていると「トイレに! 早く!」と言う。周りの人は何も反応しない。看護師さんも見当たらない。誰か倒れているのかもしれないと思いついていくと、彼女は便座を指差し「ウォシュレットの使い方がわからない」と言う。トイレからちょっと歩く呼吸器科の待ち合いスペースまで来てさらに私をピックアップし…それを聞く?!
ぎょっとしたが表情をとりつくろって使い方を教えた。彼女は怒りに満ちた顔でうつむいた。

あれ、こんな世界だっけ…と驚いた。
というのも結婚前の自分を思い出せなかった。
うっすら覚えているのはクラスでスポットライトがあたる陽キャだった。内実はから騒ぎなのだけど、人が常に集まっていて人を笑わせ、自分もよく笑った。
結婚時代の後半を過ぎ離婚すると、自分がどんな人間か、どんな人と付き合ってきたかまるで思い出せなくなった。
日常は怒りに歪んだ顔で自分の話をし続ける人が突然現れるホラーになった。
正直、離婚してから数年は道で前から歩いてくる人がいるだけで怯んだ。それぐらいの傷痕が残る体験をしてしまったのだ。

やがて少しずつ人付き合いができるようになると、良さそうに見えた相手は途中から一方的に「自分自分自分」モードになった。
私と言う存在が無く、まるで壁の穴に向かって自分の怒りをしゃべり続ける。

とめどなく会社への怒りを吐き出し続ける会社の同僚にカフェフロアで「私はゴミ箱じゃない」と冷静に言ったことがあった。
彼女は泣き出した。会社が理不尽だと訴え続ける彼女に、転職を勧めてもしないし、一度辞めたのに彼女が自分の意思で戻ってきての怒りの愚痴ざんまいだったのだ。それを一方的に吐き出しつづけられるのはもはや人間では無くゴミ箱だ。

離婚を機にほぼ自分自身に対する記憶が無くなってしまったが、さすがにゴミ箱ではなかった気がする。
いったいなぜこんな世界になってしまったのか。

それでも過去が消えても消えないものがあった。
「これは何なんだ」と突きとめたい気持ちである。なぜホラーゲームの世界になってしまったのかを知りたい。

当時SNS が無い時代だったため、個人の発信や個人の体験を共有する手段が無かった。なのであらゆる手段を試みた。小説教室の作品の中で自分自分自分と一方的に語り続ける人と、なんとか会話を成立させようとする人の会話劇をあの手この手で書いてみた。人間同士にもしたし、自分自分トークの方は韓国のお化けにしてみたりした。(急にバカバカしいキャラクターが降りてきたので個人的に気に入っていた)。
作品を読んだ人はコメディだと感じて喜ばれた。「自分自分と一方的に話されるのわかるー!」と言う人は大抵自分自分の方だった。
「いやそれ自分な?」と思いつつ黙っていた。
自分自分とスポットライトを浴びたがる人は自分にカメラが向いてないようだった。

コミュニケーションの書籍も手当たり次第読んだ。
書籍の中で出会ったある文章にはっとした。吉本隆明さんが「コミュニケーションとはセックスのようなもの」だという。お互いが感応し合うことで成立する。なるほどと思った。両方が気持ち良くないと意味がない…、いや、両方が気持ち良くなるように努力するもの、ひいては楽しむものということか。
ならば、「自分自分自分」と相手にお構いなく一方的にしゃべり続けるのはもはやレイプのようなものだ。

書いても書いてもなかなか納得が得られない。次は会社員をしながらマスコミデビューを目指す編集者、ライターの学校に行ってみた。自分が書くテーマはおりにふれて「コミュニケーション」である。
コミュニケーションに対して似たような違和感を持っている人が居るのではないかと思ったがそうでも無かった。
生徒側はいかに自分を盛れるかに注力し、現役編集長や書き手が顔を揃える講師側はいかに面白い、売れるものがあるかを探していた。
自分のようにテーマを握りしめている人はいなかった。
もしかして自分だけが異変だと感じているのか…? だとしてもそんな抽象的なテーマで語らってみたかったが、その場では相手に恵まれなかった。

のちに業界の先達に聞くと「モノになる人は学校なんか行かないよ」とのこと。
なるほど、、そうなんですねと自分もご同類の痛みを噛みしめつつ納得した。

後に自分がデビューし自分の名前で著者として書籍を出すと、顔見知り程度の人が自分の名前で検索し、昔書いた小説教室の作品を見つけ出して読んだと言う。
一方的な人とひたすらコミュニケーションを模索する私の定番劇だったけどもその人は「癒された」と言う。
認知症になってしまったお母様とのコミュニケーションと同じだと言う。「こういう思いをしたのは自分だけじゃなかったと思ったら癒された」とのこと。その方は富裕層の奥様なので、きっとロマンス調に受け取ってくださったのだと思ったがやはり嬉しかった。
悪口と研究のギリギリのラインを攻めていたので「人の悪口を書いている」とも取れるものを「癒し」というふうに解釈してくれた。
書いたものって受け取ってくださる方の感性でいかようにも変化するのだなとその時知った。

いつのまに年月が経ち40代も後半になる。
フラットでコミュニケーションが一方的ではない関係性を願いつつそれは叶えられていなかった。その後付き合ったパートナーも気がつくと相手の快適性が最優先されていてやはり自分の痛み、自分の存在が認知されていなかった。
友達も似たようなものだった。
自分がメンヘラ製造機なのかもとも思ったが、だとしても解決方法がわかるわけもなかった。

自分が悪いと100ゼロで背負う癖は幼少期からデフォルトで持っている。なので「自分が悪い」に短絡的に飛びついても解決しないことはわかっていた。
おそらく、自分が常に悪いと思う自分と、てめえ勝手な相手が組み合わさるパターンが原因とわかってきた。
何でも自分が悪いと言う相手は、てめえ勝手な存在からしたらとても居心地が良くなるのだ。

自分の人生から「不幸のパターン」が次々と検出されるけれども、だからといってなかなか自分の人生が安定しなかった。
私の好き嫌い、痛みを認知し尊重する相手に待てども会えない。
あまりに自分がないがしろになっていることにふと自分で気づき、相手にそれを伝えても逆ギレされ、強制的に関係性が終了になる。
感応的なコミュニケーションどころか、むしろひとりでいることのほうが安全だ。

そんな日、会社でケミストリーが起きた。
あるプロダクトを途中まで作ったが、デザイナーさんと自分とでそもそもから作り直して欲しいと言う。
実際にやってみると、私がプロダクトの違和感を伝えるだけでデザイナーさんは次々と形にしてくれた。文句を言うだけで魔法を起こして解決してくれるのだ。
違和感がわかるだけでどうやったら解決できるか考えが至らない自分としては自分を中途半端で無価値だと思っていた。けれど彼としては問題点を指摘されるとそれを作って解決しようと奮起するという。
彼とのコミュニケーションが盛り上がりプロダクトはリニューアルされた。あきらかに前とは違っていてお客様に喜んでいただけた。
意図と意図のコミュニケーションとはこんなに面白いものなんだと知った。
編集者とライターの関係でその体験をしたことがあったけれどもまたそれを味わうことができた。

その後、会社の事情が変わり殺伐としてくる中、彼と自分は転職していった。けれどたまに会ってはものづくりについて熱く語った。
一緒に同じものを見つめて力を出し合う経験は中毒性があった。またものづくりを一緒にしたいねと話が盛り上がる。

休日のある時、彼から電話がかかってきた。
普段は会って話すので誰かに何かあったのかと思った。気を張りながら話を聞くと何事もおきていないようだった。彼は酒を飲みながらまた一緒にものづくりしたいねとか、婚約者ののろけとか転職先での自分の評価のされ方と自分の見せ方を話し続けた。
会ったこともない婚約者ののろけが繰り返される。さすがに内容を暗記してしまっているので「すごいねー!」「そうなんだー!」「素敵な人なんだね」「良い出会いがあってよかったね」をランダムで返すチャットボットに成り果てた。
気がつくと休日の午後の3時間、4時間と過ぎていた。
男性の長電話ってあるんだ…と思いつつ、まぁその時は酔っ払ってたのだろうと思った。

ところが電話は断続的に続いた。
ある時は23:15ごろにかかってきた。
その時スケジュールが破綻した開発現場にいたので終電に合わせて23:30 に会社を出るまでギリギリまで作業していた。そんな時間だったので何かあったのかと思い、まずそれを確認すると何もないという。ならばと続けた。
「ごめんね、いままだ会社にいて、終電ギリギリまで作業してるからまた、、」
と電話を切ろうとすると彼はどうのこうのと話を長引かせた。終電の時間になり中途半端なまま会社を後にする。
たかが15分なのだけど、こちらの事情は無視ですか、とモヤついた。
その後も夜に電話がかかってくることが続いた。電話をとると数時間続く。ものづくり、婚約者ののろけ、自分の会社での生き残りの話が繰り返された。電話の頻度が上がってきて、電話の通知を見るとげんなりしてきた。
これは婚約者と話すべき内容なんじゃないの?と、さすがに何かおかしいぞと思い、思い切って聞いてみた。
婚約者とどうなっているかと聞くと何事もないと言う。聞くと、婚約者の彼女が仕事が深夜に及ぶため新居で待っている間手持ち無沙汰だから電話してきていることがわかった。

彼は交友関係が広く友達が多かったので何で自分に電話してくるのかを聞いてみた(さすがに直球で聞きたくなかったけれども話がグダグダになったので仕方なく)。
すると「みんな忙しいから」と言う。さすがに自分も声を荒げた。
「いや、私だって暇じゃないよ。申し訳ないけれどもそういう時間を過ごす相手は私じゃない。今日彼女ののろけを3時間聞いたよ。」
と言うと彼はえっそんな話したっけと言う。
いやーその話も何度も繰り返されたから暗記してるんよと思いつつ、繰り返しのことには触れなかった。 
「手持ち無沙汰のときに何時間もお付き合いするほど、私はいい人間じゃないよ」
と言うと彼は怒り出した。私がおかしいと言う。
もはやどうでもよくなり電話を終わらせた。

「自分はいい人って思われたかったからこんなことしてたのね…」と気づきを得てハッピーエンド、、とはならなかった。そんなことはとっくにやった課題である。自分が悪いというオチで解決するのは表層のことだ。

そっと自分の感覚を追うにコミュニケーション、ひととのつながりの飢えみたいなものがたゆたっている。
ああ、この飢えとともに生きていくのか、と思った。飢えを隠して一生懸命に人間のふりをして生きていかないといけない。

デザイナーの彼から電話が来なくなってしばらく経った後、「仕事の依頼をしたい」と彼からLINEが来た。
(後編に続く)

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