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50歳のノート「殻のない蟹」



◯ 居場所の無さがもたらしたもの

幼稚園にあがるころから集団に馴染めなかった。1対1ならなんとかなるが3人以上になると何を話していいのか分からない。
お遊戯も「一体なぜこんなことをするの?」と思っていた。バレない程度にやらなかったりした。

学生生活は他人からはわからない違和感があった。魚が陸上で暮らすような息苦しさ、場違い感である。たまたま成績が良かったためうっすらと見えない膜が出来て「みんな仲良く」「友達いっぱい」の圧をしのいだ。
成績を上げる、つまり自分が頑張ることで少しの安全が得られた。これはますます頑張るしか無い。

会社はなかなか難しい。
実績を出してもなかなか透明な膜にならない。
特に会社の行事が困った。バーベキューとか。
わーいわーいとなることができないので、ひたすら焼いたり洗い物をしたりする。
「やることがあるんですよね」という気配でその場に馴染めないのをごまかす。

パートナーもそうである。
なんだか頑張らないとその場にいる理由が無いと感じる。
「ほら見て!私こんなに頑張ってるの!」とまでは行かないが、ひっそりと自己犠牲を自分に課していた。

◯ 理不尽に弱い

頑張る、自己犠牲を自分の原動力にしていた。それは体力と達成力があったからこそ無理をねじ伏せることができた。
頑張ることでその場に一瞬でも存在できない自分に言い訳を与えた。
透明な膜はしだいに透明な殻になっていく。
殻の中でならひっそり息をつくことができた。

ところが、30歳の離婚と40代前半に起きた出来事は自分の力を大きく上回った。
簡単に言うと負けた。
自分は理不尽にとても弱く、もろいものだと知った。
どんな状況でも勝つ自分を信じていたから負けることを見越しての立ち回りをやってきていなかったのだ。
強靭な盾と強力な矛を失った自分はただの肉壁だった。
殻のない蟹のようなものだ。
ふにゃふにゃの中身しかなくて、いったいどうやって立てというのだろう?

◯ ふにゃふにゃのからだ

「殻が無くなってラクになった! あんなことこんなことはこのためにあったのね!」
とは残念ながらなっていない。
(「こんな経験をしたのは私が人を助ける運命だったからなんですね!」までいくとスピリチュアルビジネスの出来上がりである)

蟹の中身だけになってぱやぱやと海水を漂っている。
気を抜くと容赦なくハサミが向かってくる。
理不尽を向けられると固まって何もできないままだ。
ある日、襲い来るハサミの避け方を教えてくれる人が現れてなんとなく習っている。
けれど、ふにゃふにゃの生物としてはなんでそんなことしなきゃいけないのさ、と思っている。

なぜ殻ができたのか、なぜ殻が無くなったのか?
理由をこじつけたくてもなぜかハマらない。
もしかしてものごとには意味がないのかもしれない。「元をとる」というしくみが無いというか。
なぜ…と問う気持ちもふにゃふにゃと漂ううちに消えていく。

殻なしの蟹になって次は何を経験するのか。
小さな物語は続く。

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