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なぜ宗教は一択になってしまうのか

 日本において宗教に対するよくあるスタンスとして、無宗教がある。しかし、無宗教とは宗教の類を全て退けた状態ではない。むしろそれができているならそれは強烈に宗教的なものだろう。一般における無宗教とは、実際のところは宗教に対する無勉強の状態であり、ただ無知なだけの状態と言える。

知らないからハマる

 ある人が困難に直面したとき、その解決を提示し、納得が得られ、気持ちがスッキリしたとき、それは信仰の対象となる。宗教は、人が救われたと感じているならそれがどのようなあり方であっても成立しうる。故に、宗教的なものは世間に溢れているし、それを絶対的な人生の指針として扱う人もまた溢れている。この絶対視の一因として、先の無宗教というスタンスがある。
 宗教をよくわからないが何だかヤバいものとして退け、そのあり方を知らずに無知な状態を維持して人生を送っているとき、どこかのタイミングで必ず心が弱ったり、大きな挫折を経験したり、深い悩みを抱えたり、困難に直面したりする場面が来る。そんなとき、どこからともなく、悩みを解決してくれるものが近付いてくる。そして実際に問題が解消され、人生が良い方向に進む。そりゃもう、それに付いて行きますわな。実際には、救いとなるようなアプローチは世の中に膨大にあり、宗教もまた多種多様なものがある。しかし、知らないからこそ、目の前のその一つに依存するし、依存すると他のものを知ろうともしなくなる。だからより強くハマる。無宗教であろうとすることが、宗教に依存し、宗教のヤバさを強める土壌を生じさせてもいる。

知っているからハマる

 宗教が多種多様なのは、ある人にとってのアプローチの刺さりやすさには個人差があるということでもある。みんなで問題を解決したい人もいれば、一人で深く考えたいひともいる。強大なものに正解を提示してもらうのが楽な人もいれば、自分自身で答えにたどり着きたい人もいる。そもそも答えなんて必要ではないと考える人もいる。どのようなあり方に対しても、あなたの信仰は間違いであると指摘することは難しい。せいぜい「自分には合わない」と言うくらいが限度だろう。そして、多種多様な宗教のあり方を知ったとき、自分にとってしっくりくるあり方もまた見えてくる。知識があるが故にハマることもある。

一択?

 ここまでで書いたように、知っていても知らなくてもハマることは起こり得る。しかし実際のところ、宗教は一つを選ばなければならないものではない。自分に合った要素を取り入れていくのもそれはそれであり方の一つではある。お寺の宗派が1つに絞られているのは主に明治期の宗教政策の影響であって、複数の宗派が並立しているのが当たり前の時代もあった。神道と仏教が混じり合った信仰も多数あったし、今でもお寺の中にある神社や神社の中にあるお寺を見る機会があるだろう。宗教は、絶対に一つに絞らなければならないものではない。

カジュアル信仰のススメ

 宗教に対する無知は、とんでもない宗教に傾倒するリスクを負うことでもある。宗教に限らず宗教的な手法を使った疑似科学や陰謀論などのアプローチが溢れている現代社会においては、特定の宗教に対する傾倒を弱めてカジュアルに乗り換えたり渡り歩いたりするスタンスで居ることが、結果的に自分を救う場面も多かろうと思う。そうして知見を広げていくうちに、自分にとってしっくりくるあり方やそのあり方を深く掘り下げた理論に出会いやすくもなるだろう。だから、もっと安易に、気軽に宗教に触れていって良いと思う。宗教は依存の対象ではない。世界に対するある一つの体系なのだ。

 という個人的スタンスの布教。

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