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円空は「元祖プレイフル人」?-「円空-旅して、彫って、祈って」展

大阪あべのハルカス美術館で開催中の「円空-旅して、彫って、祈って」を鑑賞した。

円空は江戸時代はじめ美濃国(現在の岐阜県)に生まれ、修行僧として旅をしながら、その生涯で10万体!もの神仏を彫ったと伝えられている。その数もさることながら「円空仏」と呼ばれる独特の作風で日本人に愛されている。展覧会は、その円空の生涯をたどる5つの章で構成されている。

円空は修行の後、寛文11年(1671)40歳の時に奈良の法隆寺において法相宗(中国大乗仏教に連なる流派)に連なる僧としての称号を得る。その時までに彼が彫った神仏は、なめらかな質感の、美しいがありふれた作風だが、その2年後には独特のゴツゴツとした作風に変化している。その2年間の間に何があったのだろう・・。

「円空仏」は“コッパ(木っ端)割”とも“木割”とも言われる手法によって作られている。
一本の丸太を薪割りのように鉈(なた)や斧で縦に二つ、三つ、四つと断ち割った材を用いている。その多くが、丸みを帯びた面に仏を彫り、裏面は断ち割った真っ平な面になっている。また、大木から数体の仏を彫り出していたり、流木などに顔だけを彫ったりしたような作品もある。予め仏の姿をイメージして彫るというよりも、出逢った木の形状に沿って柔軟に即興的に仏の姿を見出しているようだ。

≪不動明王及び二童子立像≫ひとつの木材から3つの像を彫った

彫刻家のイサムノグチは「石の声を聴きながら」作品をつくったという。円空は「木の声を聴き、仏の声を聴きながら」彫っていたのだろう。

このような手法によって観る角度によって、まったく異なる表情を見せる。

≪両面宿儺坐像≫正面
同側面

なぜ、円空はそれほど多くの仏を彫り続けたのか?この展覧会では、その秘密を解くカギとして彼が遺した和歌(全1700首あったと伝えられている)も紹介している。

飛神ノ劔の かけハひまもなし 守る命は いそきいそきに(飛ぶ神の劔の影は暇も無し守る命は急ぎ急ぎに)

「救わなければならない命は多いので、暇もなく急いで急いで飛神が剣を振るうような勢いで多くの神仏をつくらなければいけない」というマニュフェストのような歌だ。

僧として、ひとりでも多くの人を救うために生涯で12万体の仏を彫ることを誓ったという。まるでその使命感に突き動かされたように、作風はどんどんシンプルで抽象画のようになっていく。“コッパ割”も、いかに手っ取り早く彫るか、という合理的観点から生み出された手法だったのだろう。

また、その作品は版画家の棟方志功を思わせる。極度の近視だったため、板に顔をくっつけるようにしてもの凄いスピードで彫刻刀を動かしながらつくる棟方の作風は有名だが、円空も同様に、驚くような速さで彫り上げっていったのではないだろうか。

だが、その強迫観念的な営みは、彼にとって単に使命感によるものだったのだろうか?

楽しまん 心と共に 法(のり)の道 月の京(みやこ)の 花の遊びか

一心に仏を彫る円空の姿は、とても楽し気だったのかもしれない。そう想像すると微笑ましいい気持ちになる。

≪近世畸人伝≫より

いま「Playful」という言葉が注目されている。「真剣に楽しむ」という意味だ。働く時や余暇の趣味で、あるいはスポーツでもドラマの制作でも、この気持ちでチームが協働することでより良いものが生まれる。

円空のバックグラウンドを知り、改めてそのほっこりするような作品群を観ると、「ああ、円空は“元祖プレイフル”だったんだな」と思わせてくれる。

人が望ましい職業に出逢い、より良い人生に必要な要件として「興味、能力、価値観」の3点セットが大事だとも言われる。イチローも大谷翔平も、野球という競技に興味を持ち、練習を積み重ねて能力が育まれ、やがて「野球をすること」自体が価値観になっていったように見える。

「彫る」ことに興味を持ち、膨大な造形によって独自の能力が育てられ、やがて僧としての使命感と共に「彫り続けることで人を救い続ける」価値観が生まれた、のではないだろうか。

≪賓頭盧尊者座像≫円空が自身の姿を彫ったと伝えられている

#円空 #あべのハルカス美術館  




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