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瀬戸内で、ハンセン病の歴史と「いま」に触れるということ

   この夏も行ったワーケーションで高松を選んだのは、開催中の瀬戸内芸術祭を鑑賞することも目的のひとつだった。今回は、これまで訪れたことのなかった女木島、男木島そして大島に向かうことにした。しかし、大島での体験は他の島とはまったく「別物」だった。

 きっかけは2年前に観たEテレの「100分de名著」だった。そこで取り上げられた「生きがいについて」という本に大きな感銘を受けた。著者は神谷美恵子さん。19歳の頃にハンセン病の療養施設を訪れたことから医師を志し、やがて岡山県にある長島愛生園に務め1966年に同著を出版した。今回、瀬戸内に行くならハンセン病施設のある大島へ、と夫婦で話し合って訪問を決めた。

 本来は事前予約制でしか見学することができないが、芸術祭期間中は日に5本、高松港から出る船に乗れば行くことができる。但し、いずれの船も先着50名に限られる。

 8月23日の朝、高松港に出航時間より早めに着き指定の列に並んだ。体温チェックを受け、訪問の注意書きが渡される。船内は私語禁止、島内では指定エリア以外の立ち入りや食事もできないと記されてある。

船の2階部分は島の関係者専用なので、芸術祭での訪問者は1階船室に乗船する。他の島に向かう船とは異なり窓から外の景色を見ることができず、私語も禁止のため、独特の緊張感が漂う。高松港から出発して30分、いよいよ島に到着した。船を降りると、そこは療養所の入口。実は恥ずかしいことに、注意書きを見て初めて、島は「施設がある」のではなく島全体が施設なのだと気が付いた。

 大島は高松港から東方約8kmにある面積61haの小さな島だ。島の西海岸からは「鬼が島」とも呼ばれる女木島が、南からは壇之浦が、そして東からは小豆島を臨むことができる。島全体が白砂青松に包まれていることが島名の由来となった。

さて、私たちは施設入口横の松林で、芸術祭のボランティア「こえび隊」の方から簡単な島内での注意事項の説明を受けた後、希望者はこえび隊の案内で30分程度の施設見学へ。そのあとは、各自アート鑑賞エリアを回遊した。

 島内の全エリアでは白い柵と白い線を見ることができる。これは、ハンセン病の症状のひとつである眼の障害を持った方が不自由なく園内を廻ることができるように設置されている。加えて、園内の分かれ道や建物のある場所に設置されたスピーカーからは音楽が流れている。

   大島青松園は1909年(明治42年)に設立された。「入所者の尊厳を守り、入所者の心情を理解し、入所者が安心して生活できる環境を提供する」ことを理念としている。そのように謳わざるを得なかった歴史があり、施設にはそれが隠すことなく保存されている。

   ハンセン病は1873年(明治6年)に「らい菌の体内侵入による慢性感染症である」ことがノルウェーの医師・ハンセンによって解明されたことに因んで名づけられた。が、ある時期までは「らい病」と称されて来た。この病気の歴史は差別の歴史でもある。病気自体は紀元前から発生し、インド、アフリカあるいは日本でも「日本書紀」などにも記述されて来た。感染力が低いにもかかわらず、体の一部が変形するなどの症状的な特徴から長い人類の歴史の中で差別の対象とされて来た。日本でも、1900年代初期以降、患者を強制的に収容し、療養所から一生出ることを許さない「ハンセン病絶滅政策」が行われ、それが偏見や差別を助長して来た。その隔離政策が撤廃されたのは、何と1996年(平成8年)と、ごく最近なのだ。これが、ハンセン病をめぐる出来事のごく表面的なあらまし。では、収容された患者がどのような運命を辿ったのか、そして現在どのように生活されているのか。

納骨堂

    島内には一般の病院には見られない納骨堂があり、開園以来2100名を超える入所者が葬られている。患者の多くは、家族と絶縁して入所して来た。亡くなっても無縁仏となってしまうため、ここに葬らざるを得なかったのだ。それだけではない。納骨堂横の慰霊碑と並んだ鎮魂碑にはこう記されている。

大島青松園では「らい予防法」に基づく長年の隔離政策により、この世に生を受けることなく、多数の尊い胎児等の生命が犠牲となりました。ここに受難の胎児等を心に留めきよめてその全てを供養するために、碑を刻み謹んで哀悼の意を表します。

   療養者同士の結婚は認められていた。しかし、授かるはずだった子供はこの世に生を受ける前に「抹殺」されて来たのだ。

 また、島内で四国八十八か所を巡りができるように、八十八の仏像が香川県の僧侶や篤志家の手で大正時代に寄贈された。入所者の方々は、仏に何を祈って来たのだろうか。

   アート作品は、現在は使用されなくなった入所者の住宅を使い、多くがそこに住まわれていた方々をモデルとして、あるいは協働して制作されている。

絵本作家の田島征三は、交流を行って来た同郷の入所者Nさんから聞いた人生や島での生活などを「立体絵本」として表現している。

田島征三「Nさんの人生・大島七十年」
田島征三「Nさんの人生・大島七十年」

   山川冬樹は、第二次大戦時後のモンゴルでの抑留中に病が発覚し、大島に入所した歌人、政石蒙をテーマに、彼の故郷、モンゴル、大島を作家自身が訪れた映像を3面スクリーンに投影しその詩を朗読する作品(歩みきたりて)を展示している。

   高橋伸行は、大島での生活を「目」として自ら撮り続けて来た入所者・脇林清の作品や彼の姿を濃紺に塗った部屋に展示している。

高橋伸行「稀有の触手」

   また、今会期に披露されたのは鴻池朋子の「リングワンデルング」。昭和8年に若い入所者たちが自力で切り拓いた1.5キロメートルの散策路「相愛の道」を素材に、そこから島外に脱出するエスケープルートを制作している。

「相愛の道」から施設を臨む

だが、最も感銘を受けた「作品」は一台のボートだった。

 「らい予防法」が廃止になった後、入所者はボートや木造船で島外に出ることができるようになった。入所者の方々の希望によって展示されたボートは「自由の象徴」なのだと、こえび隊の方が説明してくださった。

 「ハンセン病絶滅政策」の背景には、日本が軍事国家として列強と伍していくために、自国民が優れた民族であることを世界中にアピールするために「劣った種」を排除しようとした思想があったことを今回、知った。それはユダヤ人を虐殺したホロコーストとまったく同じものだ。その命を奪うことと、その人生から希望を奪い去ることの間に、どれほどの違いがあるだろう。日本は1907年から1996年の90年に渡ってホロコーストを行って来たのだ。

  一方、絶望的な状況の中で生き抜いて来られた方々から、私たちが学ぶべきことは山ほどある。そして、神谷美恵子さんのように献身的に治療にあたられた医療従事者や職員の方々には、人間の尊さを感じる。

 島に到着し、施設に足を踏み入れ、スピーカーからオルゴールの「ふるさと」の旋律が流れて来た時、突然、涙が出て来た。施設から目を転じると、そこには青く澄み切った空と海が広がっている。その風景とのどかな音楽とはあまりに対照的な入所者の方々の人生や想いが迫って来たのだろうか。しかし、涙の正体の説明はいまだにつかない。

 島で数時間を過ごし、高松港へと戻るフェリーが港を出る時、席から身を乗り出し上部にある窓から一枚の写真を撮った。穏やかな海の向こうに今も50名ほどの入所者の皆さんが住む島が見える。

「Nさんの人生」の出口には、田島征三さんのこんな言葉が描かれている。

この国でNさんと同じ70年を生きて、Nさんのことを知らなかった。知ろうともしなかった。Nさんに対して、ぼくは罪を冒しつづけてきた。

 全国14か所の施設に、今も1400名近くの方々が住まわれている。長い歴史の中で、特に20世紀に入り「らい予防法」によって人生を奪われた方々の総数はどれほどだろうか。港から去る時に撮った最後の一枚は、その人たちに無関心であってはいけない、という自戒を込めてのものだ。

#ハンセン病 #瀬戸内トリエンナーレ   #大島青松園
 

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