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「抽象」について考えてみた-アーティゾン美術館「ABSTRACTION」展と宮崎駿作品を通じて

アーティゾン美術館で開催中の「ABSTRACTION-抽象絵画の覚醒と展開」を鑑賞した。同美術館に収蔵されている海外と日本の抽象絵画の豊富なコレクションを目にする良い機会ということに加え、ようやく公開された宮崎駿監督の最新作に抱いた印象を確かめたくなったことも同展覧会に足を運んだ理由だった。

映画「君たちはどう生きるか」が大きな論議を巻き起こしている。映画ポータルサイト「Yahoo!映画」では、星5をつけた人が30%に対し、星1つは36%と評価が真っ二つにわかれている。

評価の内容については、ここでは詳しく述べないが、私は同作品を「抽象絵画のようだ」と感じた。物語らしいものはあるのだが、途中で思わぬ方向にどんどん転がっていく。物語を追おうとすればするほど迷路に迷い込んだような気持になる。そしてある時点で「自分は宮崎監督の脳内を冒険しているのだ。理解するのではなく“感じる”ことが大事なのだ」と思い直し、流れに委ねて鑑賞を続けると、そのメッセージがスッと心と体に入ってくるように思えた。本作品では製作委員会方式が採られていないことに驚いたが、それは宮崎監督が100%自分の作りたいものを作りたかった証でもある。

展覧会に話を戻す。サイトには「この展覧会は、印象派を起点として、世紀初頭の革新的な絵画運動を経て抽象絵画が生まれ、2つの大戦を経てさらに展開していく様子を、おおよそ1960年代まで、フランスを中心としたヨーロッパ、アメリカ、そして日本の動向を中心に展観するものです。」と解説されている。

そして「アブストラクト・アート(抽象絵画)」については、以下のような定義が紹介されており、その起源はおおよそ1910年前後だとされている。

目に見える世界をそのままには再現せず、自由な線・色・形・面・ボリュームなどによって構成した非具象的な絵画や彫刻などの芸術(「大辞林」第二版より)

抽象絵画の始祖とされるフォービズムは「画家の主観的な感覚を表現するための手段」として色彩を縦横に使ったと解説されている。

ジョアン・ミロ「絵画」(1952年)

ちなみに「アニメーション」という作品も展示されていた。調べると、この作品が制作された1914年は、アニメーションの領域でも画期的な技法が開発された記念すべき年だ。

フランシス・ピカビア「アニメーション」(1914年)

ではなぜ、抽象絵画は20世紀初頭に広がりを見せたのか。それは、初めての世界大戦や、ドイツとロシアで革命が起こるなど、かつてない不安が広がり、世界中の人々が「自分の心の中」に関心を持つようになったことと深く関係している。科学的に心を解き明かそうとする心理学は1879年のドイツ・ライプツィ大学から興り、フロイトの「夢判断」が出版されたのは1900年である。そして多くの作家が、その表現手段は異なっても自分の心の中を見つめ、表現するようになった。抽象絵画の誕生は、現代アートの誕生でもある。

展示された作品の大部分は、明快な説明のしようが無い。しかし、すべての作品には圧倒的な情熱が込められており、私を含めて鑑賞者は、ただただその情熱に身を任せながら一つひとつの作品に向き合う時間を過ごす。そして、作家の心の中に起こっていることは、文化や時代によって異なることを感じ取る。私の場合は、中国出身の作家 ザオ・ウォーキーの東洋的な世界観に魅きつけられ、同時代を生きる作家・横溝美由紀の作品からはデジタル空間的な感性を感じた。

ザオ・ウォーキー「07.06.85」(1985年)


横溝美由紀「line F040.332.2023」(2023年)

さて私には、拭い去れないひとつの興味(疑問)がある。

作家(絵画であれ映画であれ)は年を経ると、なぜ、具象的な作風から抽象的な作風に変化するのか

それは、Job(作業)がCareerへ、さらにCalling(ライフワーク、天命)へと発達するとされる、働くことやキャリアにも通じるものがあるようにも思える。あるいは、会社組織でも、経営層に近づくにつれて思考は抽象的になっていくと言われる。

アーティゾンでの展覧会と「私たちはどう生きるのか」の料金は、ほぼ同額。しかし、片方は鑑賞者がほぼ満足げに会場を後にするのに比べ、もう一方は評価が大きく分かれた。それは事前の期待値とのギャップの大きさが起因している。展覧会場に赴いた人たちは抽象的で説明のつかないものと相対することへ期待を持っていたが、もう一方の観客の多くは、おそらく「わかりやすくカタルシスを与えてくれる物語」を期待していたのだろう。

それは、多くの企業組織に起こる、経営者の想いや発言に現場の理解が追い付かないという事象にも通じる。抽象的な思考を具体的な現場実務に落とし込むためには、「物語という架け橋」が必要なのかもしれない、とも思う。

その一方で、明快に説明できない抽象的なものを「理解できない」と退けてしまう現代日本人の思考の劣化も、宮崎作品問題を通じて感じている。抽象的な絵画を観るたびに思うのは「このように作家が感じているのだから仕方ないじゃないか。でも“そこに何かがある”と感じることの大切さ」だ。すると、作家の声が聞こえてくる・・・こともある。企業組織でも、現場といえども経営者の抽象的な思考や発言を「わけがわからん」では済まさず、しかし100%良しとはせず、自分のアタマで考える姿勢がますます大切となる。

感染症、気候変動、災害、戦争・・・・。いま、私たちは20世紀初頭に生きた人たち以上の不安の時代に生きている。だからこそ、説明のつかない抽象的なものを性急に理解しようとせず、感じながら身を任せる心の余裕を取り戻す必要性はますます増しているのではないだろうか。

#君たちはどう生きるか #アーティゾン美術館 #抽象絵画



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