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ヴィキングル・オラフソンの『ゴルトベルク変奏曲』 -2023年12月2日 サントリーホール-

第一曲のアリアに息を呑む一瞬があった。深々とした呼吸で歩みを進めていた左手の動きに、はっとする変化が生まれたのだ。その変容の瞬間に、ヴィキングル・オラフソンというピアニストがこの曲に何を見ているかも、垣間見えたように思えた。

以前から感じていたが、この曲の左手の低音部には、一度聞いたら忘れられない表情がある。バッハの時代の音楽の通例として、低音部は通奏低音として曲にリズムを与え、また中・高音部の和声の色彩とメロディの土台を作る。が、バッハの曲の低音部には、それ以上に何かを語る表現力がある。確信に満ちた足どりに加えて、何かひたすらな表情を湛えた面持ちがある。バッハの音楽では喜びにも悲しみにも筋金が入っていると書いた批評家がいたが、この低音部を聞くとその言葉を思い出す。余計なことだが、こんな風に豊かな感情を湛えて人生を歩いていきたいと思ったりもする。

しかし演奏会ではこのアリアの後半部、オラフソンの左手の穏やかな歩みに、やおら力強い響きが生まれてきた。そこに何かを仰ぎ見るような憧憬の表情が加わったかと思うと、足どりは舞踏を予感させるステップに高まっていく。このアリアの低音部からこれほどの音の劇を引き出す展開には、不意をつかれた。これ以降、左手の動きから耳が離せないという思いで、私はこの演奏を聞いていくことになる。バロックの通奏低音というルーティンの範疇を超えた創造的な音づくりを、オラフソンの左手は紡ぎ出しているのだ。

実際、第二曲以降の変奏の全てを通して、オラフソンの左手には耳をそばだてて聞くほかないような濃密さがある。一つ一つの音に驚くべき細やかさがあって、聞いたことがないほどの鮮やかで確かな音の像が結ばれる。そこでは何かかけがえのない重要な事柄が語られているように、聞こえてくる。

グレン・グールドが1956年にこの曲の録音を発表したとき、それが音楽史上の事件となった最大の理由の一つは、このピアニストの左手の動きだったことは確かだろう。彼の左手の恐ろしく活発で雄弁な動きに魅了されない聴き手はいなかったろう。そしてそれは、私が先に述べたバッハの低音部の魅力を感じとるきっかけにもなったわけだ。だが、オラフソンの左手は単に表現力が豊かというだけでは言い尽くせないものがある。彼は左手で音像に劇的な変容を生み出していく。そのことをさらに思い知らされたのが、ト短調の第25変奏の演奏だった。この曲で、オラフソンは全曲の演奏表現のクライマックスを作り出す。が、なんというクライマックスだろう。そこには沈黙と虚無に向けての歩みと言うほかない音楽が出現してくる。

『ゴルトベルク』では基本的にト長調の闊達で明朗な音楽が支配しているが、その中に3曲だけ、ト短調の変奏曲が入り込んでくる。曲調は一気に悲嘆に沈み、足どりは力を失う。その中でも第25変奏でのオラフソンの左手は、大きな悲しみに放心し、ただ歩を進めることだけに導かれて歩んでいるかのようだ。何かが消滅していく過程を追うかのような足どりに、会場は身じろぎも出来ない静けさに浸される。ただ、それでも前半と後半のそれぞれ最後の局面で、音楽は失っていた感情を取り戻す。低音部には力強く踏みしめる足どりが戻り、忘れていた涙とともに歌が戻ってくる。

だが、そんな左手に耳を傾けていた聴衆は、この曲の最後にもう一つ、ピアニストが忍ばせた小さな、しかし決定的な音の劇を聞き取ることになる。全曲を通してバッハはダ・カーポを記して曲の前半部と後半部をそれぞれ繰り返す指示を与えている。それに従って再び弾かれた曲の後半部の最後、先述の低音部に戻ってきた力強い足どりは、再び戻ってはこないのだ。低音部の支えを失った歌は何かの影のように弱々しく奏され、絶望に消えていく音の後ろ姿を見つめながら、音楽は終っていく。

しかし、聴衆は呆然としているわけにはいかない。次に始まる第26変奏は、再びト長調の明るさを取り戻すだけではなく、音楽には大いなる歓喜が戻ってくる。低音部もそれに伴い唖然とする速度で上昇と下降を繰り返す。主に二段鍵盤用に書かれたこれらの曲たち(*)は絢爛たる超絶技巧で狂騒的に跳び、躍る。その際のオラフソンの演奏には単に名人芸と言うだけでない、圧倒的なしなやかさと解像度がある。

そして、最後の第30変奏、初めて低音部が声を涸らすような大声で歌いだす。それはバッハ一家が集っての輪唱が、父親の胴間声のリードで歌い始められたかのように聞こえる。空に向けて哭(おら)ぶような呼吸で歌われる歌は、生涯を確信のうちに歩み続けた音楽家の人生への頌歌だろう。その思いを受け継ぐように再び戻ってくるアリアは、人生と音楽とを与えてくれたものへの感謝の念で歌われているのを、聞く者ははっきりと感じる。

(*)ピアノという楽器のなかったバッハの時代、鍵盤音楽はチェンバロやオルガンなどの二段鍵盤の楽器で奏された。『ゴルトベルク』は、一段鍵盤用と二段鍵盤用に書かれた曲が混ざっている。

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