『ネルソン・フレイレ リサイタル』 -2017年7月4日 すみだトリフォニーホール-

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ショパンとシューマンを同じ説得力で聞かせるピアニストは、そうたくさんはいない。アルゲリッチ、ポリーニ、ピリス⋯⋯それ以外には?いやいや、ブラジルのネルソン・フレイレがいたじゃないか!

前半のシューマン『幻想曲 ハ長調 作品17』。夜空を駆け上がるようなあのテーマが弾きだされた瞬間、シューマンに必要なのはこの音だ、と頷いてしまう。深くて艶があって、粒立ちのいい音がどこまでも連なっていて、シューマンの、いろいろな声部から途切れ途切れに現れては消える断片的なモティーフが、それぞれ独立しつつも連続している。その絶妙なバランスを、独りよがりに爆発する情熱と、相手へのためらいに立ち止まる気遣いとのバランス、と言い換えてもいいかもしれない。それこそが、シューマンの音楽なのだ、と。

このピアニストの音楽に対するスタンスは、舞台袖から歩いてきてピアノの前に座り弾きだす一連の動きと呼吸に、もう表れている。すっと登場してあっという間に音楽が始まる感じは、音楽に入っていくと言うより、既にこのピアニストの中で流れている音楽があふれ出してくる感じだ。

後半のショパン『ソナタ第三番』。第一楽章の疾走する第一主題は、ピアノの鉄の弦の響きが聞こえる。けれど、夢見るような第二主題からは、ピアノの木の反響が伝わってくる。ポーランドの作曲家ショパンが第一主題では革命という未来への意志を歌い、第二主題では故郷の過去への憧憬を歌う。それがピアノの音に乗るというのはこういうことなんだ、と思う。それと、第三楽章の目まぐるしい転調が繰り返される局面の、なんという転換の滑らかさ。長調はあっという間に短調に変わりつつ、それは同じ感情の表と裏なのだ、とこのピアニストは言っているかのようだ。実際、聞いている観客として、自分がいま悲しいのか幸福なのか、全く分からなくなってくる。

ヴィラ=ロボスから聞こえてくる音の明るい色気も、魅力的だ。当初予定されていたドビュッシーの『子どもの領分』から変更されたプログラムということだが、そう言えば、この作曲家がドビュッシーから受け継いだものがずいぶんあるんだと思えてくる。ただここからは、ドビュッシーにないラテン的哀愁が漂いだすけれど。

アンコールのブラームスの『インテルメッツォ』は、この小曲にこんなに涙腺決壊ポイントがあったのか、と思い知らされる名演。しかも、そうか、この作曲家のピアノ曲からは、シューマンとショパンの二人の響きがしっかり聞こえてくるのだな、と思って、もう一回落涙した。

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