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僕のマンガ道 第3回 大島弓子

僕がマンガを読み始めた頃は昭和40年代の後半、
ちょうど貸本屋が衰退して、
閉店や廃業が相次いでいた頃の再末期だ。

その頃住んでいたのは島根県の松江市で、
まだ近所には貸本屋があった。
しかし僕は貸本屋に通ってマンガを借りた、
という記憶はない。

当時はまだマンガを置いている
図書館というのもほとんどなく、
〇〇という図書館にはマンガが置いてあるらしいぞ
と聞いて行ってみると「サザエさん」が
数冊置いてある程度だった。

それで僕のマンガ調達方法は、
少ないお小遣いで時々単行本を購入するか、
住んでいた社宅の共同ゴミ倉庫で時々見つける、
くくってあるマンガの本の
ビニールひもを切って盗み読みするくらいだった。

ある日、ゴミ倉庫で、
20冊くらいの少女マンガ雑誌がくくってあるのを見つけた。

さっそく倉庫の床に座り込んで読み始めたが、
日が暮れてきて、
読み切れなかった分は家に持ち帰り、
3日くらいかけて全部読んだ。

こうしてまとめて大量の少女マンガを読んだら、
ストーリーにあるパターンがあることに気が付いた。

それは、今となってはいかにも少女マンガらしい、
お決まりのパターンだとわかるのだが、
例えば、 ドジで目立たないメガネの女の子が、
スポーツ万能で成績も優秀な、
カッコイイ男の子と廊下でぶつかって、
そのはずみでメガネがはずれてしまい、
その子の素顔を見た男の子がキュンとなってしまって、
休みの日に遊園地へ行こうと誘ってくれたりするのだが、
その男の子の事が好きな意地悪な女が一緒に来て、
色々と妨害されて、でも最後には、
男の子とメガネっ子がいい感じになる、
といった感じの、
いうなれば「安い」ストーリーであった。

そんなような、同じような展開で、
同じようなオチのマンガが、
別々の雑誌にも、別々のマンガ家の作品にもあって、
子供心ながらに「パクリじゃねえか」と思った。

しかもそういうマンガたちは、
絵柄までが似ているのであった。

なので途中から、そういう、
先の展開の読めるマンガは、
飛ばして読むようになった。
そんな中、ひとつだけ、
子供にとってはさっぱり意味がわからない、
不思議な絵柄で不思議なストーリーのマンガがあった。

それは、難解で哲学的な内容の作品で、
その雑誌の中でも、その作品の部分だけが、
妙に浮いているように感じたのだが、
わからないなりにも、なにかの魅力を感じる作品だった。

その時はそれだけの体験で終わったのだが、
後に高校生になって、
「綿の国星」という作品に衝撃を受け、
大島弓子のマンガを
手当たり次第に買って読むようになり、
その中に小学生の頃に妙に印象に残っていた、
あのマンガを見つけた。

それは「きゃべつちょうちょ」という作品であった。

この作品をウィキペディアで調べると、
「別冊少女コミック」の1976年の8月号に
掲載された作品だということがわかった。

まさに僕が10歳の時に書かれていた作品で、
僕はほぼリアルタイムで読んでいたのであった。

今となっては大島弓子が
24年組の中でも別格の存在で、
いかに神格化されているかは知っているが、
そんな知識が何もない子供にとっても、
大島弓子は「特異な」作家だったのである。


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