VA-11 Hall-A ――最新の、そしてもう一つの南米文学の形

 南米文学、と言われて何を思い出すだろう。真っ先に浮かぶと思われるのはたとえばガルシア・マルケス『百年の孤独』であるとか、ホルヘ・ルイス・ボルヘス『伝奇集』であるとか、或いは『マジックリアリズム』といった技法のこと、ではないだろうか。
 一般的には『ブームの世代』というのか、カルロス・フエンテス、マリオ・バルガス・リョサ(ジョサ)、フリオ・コルタサル、ガルシア・マルケスといった作家を指すことが多いかもしれない。多くはマジックリアリズムや幻想小説的な技法を用いていることが特徴であり、『南米文学=マジックリアリズム(的な幻想)』という認識も多いのではないだろうか。

 では、今回のテーマである『VA-11 Hall-A』がそういった意味で南米文学的か、というと実はそうでもない。ジャパニメーション的なサイバーパンク、というのはSFであり、技法としてのマジックリアリズムや幻想小説としての意匠が見られるわけではない。
 とはいえ、今回こうして並べたからには無関係ということも勿論ない。

 まず、この点に関して異論はないだろうというか、当然の話なので呆れられてしまうかもしれないのだが、『南米文学』というのは『南米で書かれた文学』である、ということ。それはそうだろう。『VA-11 Hall-A』はヴェネズエラのクリエイターによって書かれ、作られた作品であり、その作品形態から厳密に文学であるか、というのは一旦置いておくとして、テキストベースの物語である。

 もう一つは、『南米文学』というジャンルがもつ、土着性や土地勘のようなもの、であり、これは解説が必要だろう。
 南米文学に於いて、『マジックリアリズム』以上に重要なのは南米という土地だろう。主に政治によって、激動の時代を生きざるを得なかったラテン・アメリカ圏は、その特徴的な文学の起こりから今まで、変わらず厳しい現実と直面させられている。そしてその多くはその『厳しい現実』と相対するために書かれ、表現されている。シンプルなリアリズム小説に端を発し、『マジックリアリズム小説』、『アルゼンチン幻想小説』といった、いかにも南米的な個性を感じる作風のブームもまた、単なる現実逃避ではなく、『現実と超現実』について考えさせられるもの、である。とはいえ、ただ南米、この場合はヴェネズエラ、の(厳しい)現実を描いたというだけではリアリズム文学的であり、わかりやすく『南米文学』的とは言えず、こじつけとなってしまいかねない。

『VA-11 Hall-A』で描かれているのは『グリッチ・シティ』(バグの街)であり、
ライターは『地元の様子を描いた部分もある』と発言しているとはいえ、それが全てというわけでは勿論なく、そこは日本もアメリカも、世界中が『グリッチ』してしまった街、なのではないだろうか。
『グリッチ』。実はこの概念こそが『VA-11 Hall-A』、そして現代の南米文学的な要素を考えるにあたり重要なのではないだろうか、と考えている。

 ゲームに於いてグリッチ的な表現を主に扱った作品としては、フリーゲーム『ゆめにっき』が嚆矢なのではないかと思う。(作品自体は『MOTHER』に影響を受けていると思われるが、それも全てというわけではない)。あくまでグリッチ『風』というか、明確にバグを楽しむというコンセプトではないものの、その悪夢的なドット表現は後続の作品、特に海外インディに於いて強い影響を与えた。
 たとえばフリオ・コルタサルがまさに『夢と現実』の境界、『対岸』を描き出したように、『ゆめにっき』に描かれるグリッチーな世界観は(フリーゲーム時代の都市伝説的な佇まいもあり)『現実』をひずませた。
『VA-11 Hall-A』に於いて最も印象的なグリッチはそのタイトル、だろう。

『VA-11 Hall-A』と書いて『ヴァルハラ』と読ませ、それはまた『ヴェネズエラ』との言葉遊びでもある。

 繰り返しになるが、『VA-11 Hall-A』本編に魔術的な意匠はほぼ見られない。情報量の多さなど、ある種ボルヘス的と言える部分はあるものの、作品美術は美麗なドット絵で描かれ、物語は軽妙なユーモアを交えながら極めて論理的に進行していく。しかしその舞台はあくまで『グリッチ』して(バグって)しまっているのだ。そして、それこそがマリオ・バルガス・リョサが言うところの『(文学に必要な)主観の客観化』なのである。

 冒頭からテクニカル・タームが続出してしまい、小難しい話だと思われているような気がするが、しかし南米文学と呼ばれるものや『VA-11 Hall-A』や『ゆめにっき』といった作品群が難解か、というとそうでもない、と僕は思う。
 単純に、とんでもない話がどんどん転がって、面白い。それもまた南米文学の魅力だと個人的には考えている。無論、前述のように、土地柄、政治と文学、歴史とルーツといったものが絡んでくるし、研究もまた必要であり、文学史上重要な土地/ブームなのは確かだ。しかし。
 少なくとも、僕が南米文学に触れてみて感じた印象はシンプルだ。それは、『生きる』ということ。

『VA-11 Hall-A』にこういったセリフが出てくる。「死を悲しむよりも、生まれてきてくれたことを祝おう」。

 そういうこと、なのではないかと思う。追い詰められた現実の果て、グリッチの先では、こうした思想はある種の狂気を孕むのかもしれない。それでも、生への渇望、人を愛するということ、情熱、そういったものが、南米をグルーヴさせ、我々のような異邦の者たちをも感動させ得るのではないだろうか。
『VA-11 Hall-A』は明るい。その裏に悲しみを抱えながらも、常に前を向いている。
『客観化された主観』、それはヴェネズエラ、南米に留まらないもの、だろう。日本も、ヨーロッパも、オタク文化も、あらゆるすべてはグリッチされ、最新のゲームとしてあなたのプレイを待っている。この、あらゆる情勢が暗く下を向いた世の中に於いて、あなたが前を向くことを待っているのだ。


※参考文献
寺尾隆吉
『ラテンアメリカ文学入門 ボルヘス、ガルシア・マルケスから新世代の旗手まで』
中公新書

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