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地の塩として生きる マタイによる福音書5章13節

2023年7月30日 礼拝


マタイによる福音書5:13
あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。

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はじめに


コロナ感染後、療養のため二週間ほどお休みしてましたが、今回からメッセージ再開です。今回は、リクエストに応えまして、地の塩、世の光をテーマといたします。どの教会でもしばしば取り上げられ、クリスチャンの生き方の指針として語られるテーマですが、どちらかと言えば、クリスチャン倫理として語られる言葉として教えられるものですが、本来その意味とはなんであるのかをあらためて問い直したいと思います。

地の塩


防腐剤として解釈されてきた塩

塩というのは、調味料の基本として扱われるだけでなく、非常に有用な化学物質であり、様々な物質を作る媒体ともなる物質です。古くは、梅干しや漬物に代表されるように食品の腐敗を防ぐ防腐剤として珍重されていました。しかも、適量の塩分は人命維持のために重要であることは言うまでもありません。

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イエスは、クリスチャンを『地の塩』であると語ります。『地』とは何を指すのかと言えば、この世を意味します。つまり、この世における防腐剤として、社会に塩気をつける役割がクリスチャンにあるというように一般的には解釈されていますしそのように考えて私たちは行動しています。

肥料としての塩

ところで塩はどのようにして「塩味」を失うのかということについて考えていきます(マタイ5:13)。

塩化ナトリウムは非常に安定した化学物質です。ところが、水に溶けやすいという性質があります。当時、パレスチナでは、死海の海岸から掘られた塩 は、塩化ナトリウムが溶けるにつれて、徐々に塩味を失うことが知られていました。

死海で採られた塩は古代パレスチナでは肥料としてよく使われていたそうです。 塩は古代において重要な肥料であったそうです。

塩は、肥料として用いられるということに驚きですが、現代においても利用されているようです。

塩は、土の質を高め、実りを増やすためのものであったということです。
そのため、マタイ5:13(ハイネイス エステ ト ハラス テース ゲース) は『あなたがたは土のための塩である』と訳されるほうがふさわしいと考えられます。

海水の成分はその96%がナトリウムで構成されています。しかし死海は60%が「マグネシウム」、22%が「カリウム」、それから様々なミネラル成分からなり、ナトリウムは4%ほどと言われています。死海の塩は以外にも塩化ナトリウムの含有量が少ないのです。

肥料として考えると、「塩化ナトリウムが抜けた塩」は肥料としても役に立ちません。 ですから、イエスの言葉は、

「塩が滲出した岩塩を土地に撒いても、役に立たない」
(N. Geldenhuvs, The Gospel of Luke, New International Commentary on the New Testament, 400)

という意味かもしれないと考えられています。

もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。

と書かれているのは、死海の岩塩に含まれる塩化ナトリウムが抜けてしまった状態の岩塩であって、おそらくは、にがり成分だけ残った状態でしょうから、塩気がなく苦い塩であったと思われます。

このように解釈していきますと、単に塩として遣わされているクリスチャンは、社会を浄化し清めるだけでなく、むしろ、世に潤いをもたらし実りをもたらす存在として撒かれる肥料として遣わされているのだということがわかります。

ところで、塩化ナトリウムは、肥料としてはごく微量でいいそうです。塩害という植物にとって致命的な障害をもたらすからです。

海水に最も多量に含まれるミネラルであるナトリウムは、植物の生育にとって必須元素ではありません。しかしながら、同 じ仲間のアルカリ金属であるカリウム(植物にとって多量必須元素)が欠乏しているときには、欠乏障害を軽減したり生 育を促進することも認められていることから、農学的有用元素とされています(参考文献6)。また、アニオンとして最も 多量に含まれる塩素は、植物にとっては必須元素ですが、ごく微量しか要求されません(微量必須元素)。したがって、 海水に大量に含まれるナトリウムと塩素に対する植物側の要求性は低く、海水や塩を植物栽培に利用する場合には、ナ トリウムや塩素の致命的な過剰障害を回避した利用法が求められます。

岩塩と塩の話 1.植物栽培への海水と塩の利用 (2)海水と塩の種類と利用方法
 https://www.saltlamp.jp/fs/earth/c/salt-agri2

そうした塩害を考えると、死海の岩塩に含まれる塩化ナトリウムの含有量というのは、程よい濃度であるのかもしれません。こと日本において、クリスチャンが少ないと嘆くことも多いのですが、そうではないのかもしれません。実は、一人ひとりのクリスチャンが日本において遣わされていることで、ごく少数であってもこの日本を実り豊かに潤しているということです。

豊かな味わいをもたらす塩

神は、信仰、希望、愛といった神の賜物を通して、神の前に悔い改めた信仰者を保存し、その存在に本物の味をもたらしてくれます。塩というのは、塩化ナトリウムがもたらす塩っぱさだけではありません。

塩梅よく加えられた塩は、素材を活かし、旨味や甘みや雑味を素晴らしい味わいへと昇華させる作用があります。

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神の御業は、信仰という神の新生を通して、私たちをより聖なる実り豊かな者とするために、私たちを聖めるとともに、そのクリスチャンの存在が世を至福の味覚に変える働きがあります。

コロサイ書4:6 あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります。

新改訳聖書 いのちのことば社

塩と聖霊

主との交わりは、罪の影響である腐敗を食い止め、私たちの人生に豊かな実りをもたらします。これこそが、聖霊の働きです。

聖霊の助言を無視し、自分のやりたいことを追求するなら、私たちは腐敗していくでしょう。私たちの塩気とはどこにあるのかと言えば、聖霊にあります。聖霊とともに歩むならば、文字どおりの塩と同じように、神の恵みは私たちを道徳的な腐敗から守り、この世に聖めと実りを与えます。

しばしば語られることですが、塩気をつけるために、私たちは倫理的に生きなければならない、立派にならなければならないというように語られますが、それは、パリサイ人の生き方です。かつてパウロは、神の御心であるとして、律法を完全に守るとともに、クリスチャンを迫害しました。その迫害の動機は、自分で自分の義を打ち立てるということでした。義を打ち立てるためにクリスチャンの迫害を実行するということも義と見做されると解釈をしました。

そのパウロがローマの獄中で記したテトスへの手紙の中で、彼はこう言いました。

テトス 3:5 神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。

つまり、私たちは、自分で自分に塩気をつける生き方を求めるべきではないのです。自分で自分の正しさや義をもってこの世に臨むのではありません。私たちは、聖霊に従って歩むべきことです。

聖霊に満たされてこそ、私たちはこの世にあって有用な存在とされます。こうして、神の喜びと力によって、果実で満たされた人生を送ることができるということ。これが、塩気をつけるということであるということです。
ハレルヤ!