見出し画像

映画技法講座10「Subjective Treatment」

 なぜ、一人称(POV)映画は、受け入れられなかったのでしょうか。
——「あなたが主人公」という惹句が、羊頭狗肉であるからにほかありません。
 主人公(POVショット)は動けても、私たち観客は、客席から動くことができません。つまり、自ら動いているかのような視覚情報を得ているにもかかわらず、視覚情報以外のフィードバック(体感)がないのです。この感覚の不一致が、ときに映像酔いすら引き起こし、私たちの感情移入を拒みます。

ミラーボックス

 主人公に一体化できないのは、フィードバックがないからです。すなわち、幻の肢体(POVショット)の自由がきかない
 これと似た状況に幻肢痛があります。病気や事故などで手足を失った人の多くは、失ったはずの手足が依然として、そこにあるかのような体験をするそうです。そして、その幻肢の自由がきかないことで、そこに激しい痛みが生じる、それを幻肢痛と呼び、その治療に鏡が利用されます。
 次の動画(8:00〜15:00)に詳しい説明があります。

 POVショットとは、観客が主人公のフリをすることです。あたかも自らの肢体が映画内世界にあるかのような体験。しかし、その 幻の肢体(=幻肢)は、自由がききません(POVショットを自由に操ることはできません)。つまり、それだけでは感覚不一致(=幻肢痛)を引き起こしてしまいます。
 そこでスクリーンを鏡にします。主人公が観客のフリをして、観客に、あたかも自分がそこにいるかのように錯覚させるのです。幻肢に健肢の鏡像を与え、幻肢痛が寛解したように、POVショット(幻の肢体)に、観客のフリをする主人公(観客の鏡像)を与え、感覚の一致、感情移入を促すというわけです。
 では、主人公が、観客のフリをするには、観客の鏡像として振る舞うには、一体どうすればいいのでしょうか。そもそも、映画に登場するような美男美女を自分の鏡像だと錯覚することなどできるのでしょうか。

見ることしかできない


 たとえば、自宅でテレビドラマでも見ているとしましょう。リラックスしているあなたが大きな欠伸をする、と同時にドラマの主人公も欠伸をする。あなたが髪をかきあげるタイミングで、主人公も髪をかきあげ、あなたが脚を組むと主人公も脚を組む——と、ここまで偶然が重なることはないでしょうが、似たような経験は少なからずあると思います。そのとき、感覚(アクション)の一致を認めたあなたは、そこに他の誰でもないあなたの鏡像を見た、そう言えるのではないでしょうか。
 ただし、次のような反論があることでしょう——たしかにアクションの偶然の一致が、感覚の一致、すなわち感情移入させることはあるとしても、そのような偶然はほぼ起こらないし、そもそも映画館の観客は、客席に縛られていて、アクションと言っても、スクリーンを見ることしかできないではないか——そう、「見ることしかできない」ことこそが、映画を見る観客の誰にでもあてはまり、かつ、今現在、他の誰でもないあなたが、アクチュアルにおこなっているアクションなのです。つまり、主人公が観客のフリをする(観客の鏡像となる)には、「見ることしかできない」主人公を描けばいいのです。
「見ることしかできない」——果たして、それだけで本当に感情移入できるのでしょうか。2つの動画を見てください。

 どちらも広義のドッキリ(prank)と言っていいと思いますが、私たち視聴者の感情移入のあり方は全く異なります。まずLGの方ですが、典型的なドッキリといっていいでしょう。仕掛け人が、ターゲットにいたずらを仕掛けます。一方のWhat would you do?(あなたならどうする?)は、仕掛け人が、ターゲット(他の客)の前で、芝居(いたずら)を上演するだけです。ターゲット(他の客)には芝居を見せるほか何もしません。ターゲット(他の客)は——私たち視聴者と同じく——その芝居を「見ることしかできない」。
 前者で騙されるターゲットを見て私たちが笑えるのは、視聴者が、画面のこちら側、つまり安全圏にいるからです。一方、後者での視聴者は、「見ることしかできない」というターゲット(他の客)との類似を奇貨として、一気に彼ら(私たちの鏡像)の視点に絡めとられるので、もはや前者のように安全圏から見ることはかないません。

 では、映画はどのようにして、主人公に「見ることしかできない」観客のフリをさせ、感情移入を促すのでしょうか。具体的に見ていきましょう。


『裏窓』(アルフレッド・ヒッチコック)

 誰もが指摘するように『裏窓』は「映画についての映画」でしょう。主人公の部屋は映画館で、裏窓がスクリーン、車椅子から動けず「見ることしかできない」主人公は、まさに私たち観客です。私たちはもはや客席という安全圏から映画を見るのではなく、「見ることしかできない」主人公とともに映画の中で固唾を呑むことになります。

『ゴースト/ニューヨークの幻』(ジェリー・ザッカー)

 ゴーストになってしまったサム(パトリック・スウェイジ)が、自分を殺した真犯人が友人だったと知るシーンです。『裏窓』の主人公と異なり、ゴーストのサムは何処へでも行くことができます。しかしながら、ゴーストなので「見ることしかできない」。たとえ友人が裏切ったのだとしても、彼の拳は、観客の拳同様、空を切るほかないのです。

『ロボコップ』(ポール・バーホーベン)

 殉職した警官マーフィ(ピーター・ウェラー)は、ロボコップとして蘇ります。蘇ったといっても、プログラムどおりに動くロボコップが見せる世界を「見ることしかできない」マーフィ、そして、ただ過去の記憶を「見ることしかできない」マーフィは、まさに「見ることしかできない」われわれ観客の鏡像なのです。

 次に映画ではありませんが、吉田大八が監督したスポーツ振興くじtotoのCMを見てみましょう。

「見ることしかできない」主人公の全てがあります。彼は補欠(ベンチウォーマー)であって、客席を温めるだけで「見ることしかできない」観客の完璧な鏡像です(≒『裏窓』)。そして、これまでの過去の努力を回想します。回想というのは、思い出すことしかできない「見ることしかできない」ものです(≒『ロボコップ』)。一方的な視線(=片想い/すれ違い)は、まさに「見ることしかできない」恋愛ものにおける基本で、そのジャンルへの目配せだけで十分視聴者はドラマを想像することができます。

サブジェクティヴ・トリートメント

H:そら、若い映画監督はよくこんなことを言うだろう。よし、観客がカメラになるようなシーンを撮ろうじゃないか、とね。これは紋切型の中の最たるものだ。ボブ・モンゴメリーは、「湖中の女」(47年米)という映画でこの紋切型を実行してみせた。そんなことをする必要はないのに、だ。目的の人物のクロースアップを撮るだけでいいのだ。知っての通り、これはトリックであって、それ以上の何物でもない。クロースアップとその人物の見ているものを撮るだけでいいんだ。彼らと一緒に動いて——好きなように動かしていい——彼らにどんな経験でも——それこそ何でもよい——をさせればいいんだ。
                                                       A・ヒッチコック『ヒッチコック映画自身』

「(目的の人物の)クロースアップとその人物の見ているものを撮るだけでいい」というヒッチコックの発言と、ここまでの考察をもとに、観客を感情移入させる両輪についてまとめましょう。

○観客が主人公のフリ——POVショット(その人物の見ているもの)
○主人公が観客のフリ——見ることしかできない(目的の人物のクロースアップ)

 これをヒッチコックはサブジェクティヴ・トリートメントと呼んでいます。最後にヒッチコックによる典型的なサブジェクティヴ・トリートメントを見て終わりにしましょう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?