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30,000点、1本足、3人のコーチ

和訳です。現地3月7日のLAL対DAL戦、彼を象徴するショットを沈め、ダーク・ノビツキーはキャリア通算30,000点を達成しました。
その彼の30,000点への道のりと、シグネチャームーブである片足フェイダウェイ、そしてそれらに関わった3人のコーチについての記事を訳しました。以下全訳。

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ダラス・マーベリックスの本拠地である、アメリカン・エアラインズ・アリーナの目の前に、ある銅像が飾られる日がいつかきっと来るだろう。片足フェイダウェイを放つ、ダーク・ノビツキーの銅像が。

片足フェイダウェイはダークを象徴するポーズだ。生ける伝説である彼の、限られた者しか到達できないキャリア通算30,000点クラブ入りを祝うべく会場に配られたTシャツにも、マブスのストアで売られている記念カップにも、このポーズは描かれている。世界中のプレイグラウンドで真似されているショットでもあり、他のNBAのスーパースターにコピーされたショットでもある。

その片足フェイダウェイに"The Dirk"という愛称をつけたのはレブロン・ジェームス。次に30Kクラブに加わるであろう彼からの、最大級の敬意の表れだ。

だが、ジャバー、マローン、コービー、ジョーダン、チェンバレンという3万得点達成者の並びに加わる過程の中で、片足フェイダウェイが彼の最大の武器として注目を集める前だって、ノビツキーは得点を量産していた。

彼の空前のシュート力と、長期に渡りメンターを務めるホルガー・ゲシュヴィントナーとのバランスを鍛えるドリルのおかげで、ノビツキーにとってはあのフラミンゴにも似た様のフェイダウェイが自然に感じられるのかもしれない。だがそれは、彼が10代の頃にドイツの薄暗い体育館で練習していたシュートではない。彼のレパートリーにそれが加わった時、既に彼はオールスター常連だった。

ノビツキーの片足フェイダウェイは、証左だ。彼が19年間、NBAで、どれだけ自身のゲームを磨いたかということの。ここからは彼の進化について、彼がマーベリックスで師事した3人のヘッドコーチの視点を通して見ていこう。

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1人目:ドンネルソンが隠れた才能を見つけた

1998ナイキ・フープ・サミットに向けた練習でたまたまダラスYMCAに訪れていたノビツキーを見て、ドニー・ネルソンは父に「ドイツに行かなきゃ。このドイツ人の少年、7フッターでシューティングガードのプレーをする少年を見るために」と伝えた。
ミスマッチを創り出す天才であり、マーベリックスのコーチ及びGMとして悲惨なロスターを引き継いだドン・ネルソンは、息子の言葉の次の週、空いた口が塞がらなくなった。そこで見たものに圧倒されたのだ。

「彼は私が見てきた中で、最も才能に恵まれた10代だった。それも7-1の身長だというのに」現在ハワイで暮らすネリー(ドンの愛称)は、家の近くのゴルフコースで時を過ごした後にそう語った。「あの男は驚異的だった。彼に惚れいったし、もし彼が前年までにもフープ・サミットに出ていたら、我々は彼をドラフトできなかっただろうと理解した。彼は30何点取って、14リバウンドして、MVPを取った。素晴らしい。それでいて、多くの人が彼に気付いていなかった」

「彼を手に入れることができてラッキーだったよ」

その夏、ミルウォーキーとのトレードダウンの後、9位指名としてマブスに獲得されたノビツキーもまた、今ではそのことを幸運に感じていた。型にとらわれない、天才オフェンスコーチの元にたどり着いたのだから。

当時のコーチのほとんどは、7フッターにロングシュートを打たせるなんて考えられなかっただろう。ネリーは違った。ノビツキーが4番ポジションに革命を起こすポテンシャルを秘めていることを見抜き、彼に自由にやらせた。ペリメターで彼のように技術のあるシューターを守ろうと思ったら、他のチームの4番は陸に上がった魚のように、為す術もなくなると考えたからだ。

「ほとんどのコーチはビッグマンにスリーなんて打たせたくないと思っていただろう。中でプレーさせたいと思っていた。それが普通は1番効率的だから。だが、ダークは例外中の例外だった」ネリーは語る。「彼は外でプレーさせた方が、中でプレーするよりずっとずっと良かった。プロになるのであればポストアップを練習し、中でも得点を取れるようになる必要があったが、私の中で明確なことが1つあった。4番の選手が彼を守ることになれば、彼は毎回オープンになるだろうし、恐ろしい選手になるだろう、と」

「彼が若い時、彼が持つ最高の選択肢は、シュートを打つことだった。だから私は、彼がオープンな時はいつだって、彼に打つことを求めたんだ」

ノビツキーのキャリアは、決して順風満帆ではなかった。ネリーはシーズン前、彼が新人王を受賞するだろうと予想したが、その予想を実現させることはできなかった。トレーニングキャンプがロックアウトの影響で短縮されたこともあり、ドイツの下部リーグから来たばかりの20歳のノビツキーは、肉体的にも精神的にもNBAに準備ができておらず、困窮した。

2年目、ノビツキーは大きく前進した。ポイントガードのスティーブ・ナッシュがプレイメイカーとして成長したことも相まり、得点は前年の倍以上となる17.5点を平均した。彼らはNBAを代表するピック&ポップ・デュオの1つになっていった。マブスのフロントオフィス入りを果たす前、父の下でアシスタントコーチを務めていたドニー・ネルソンは、「ストックトンとマローンの別バージョンだ」と評した。

「ネリーはノビツキーの長所を受け入れて、弱点の克服にも取り組んだ。」とドニー。「もしかしたら他のコーチだったら、彼のディフェンスの成長速度に我慢ならず、最初の2、3年はベンチに置いたかもしれない。でもウチには、彼の潜在能力、そして彼がこのチームの未来であることを見抜き、彼を後の成功のために敢えて失敗できる環境に置いた、クリエイティブなコーチがいた」

3年目、ノビツキーは21.8点をアベレージし、11年連続シーズン50勝の最初の年になった。その翌年、23歳のシーズンに23.4得点をあげ、オールスター出場13回のうちの最初の1回をその年に果たした。

批評家たちはネリー時代の彼のディフェンス力を批判のネタにした。しかし、彼のスコアラーとしての効率性は、「7フッターはゴール近くでプレーすべきだ」という議論を終わらせた。

「全ての始まりはネリーからだったと思う」ノビツキーはそう語る。「ぶっちゃけ大きい4番の選手に対峙するには身体の準備が整ってなかった俺を、彼は4番で使った。でも彼は、ミスマッチの天才だったから。彼は俺をシューターとして使う道を見つけてくれた。そして、この世界で生きていく自信をくれた」

「7フッターがドリブルしてシュートを打つのを許すコーチが、90年代にたくさんいたとは思えない。俺のキャリアの始まりにとって、彼は完璧だった。彼のおかげで俺は前に進めた。いろいろ試すことができた。彼は俺に、俺らしくプレーさせてくれたんだ」

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2人目:『小将軍』が彼を新たなレベルに連れていった

選手-コーチ間の関係は、元チームメイトでもあるエイブリー・ジョンソンとの間では、必ずしも暖かくほぐれたものではなかった。"The Little General"とも呼ばれた彼は、ネリーのような自由にやらせる手法を取りはしなかった。彼はノビツキーに要求した。彼のディフェンスにガミガミ言い、オフェンスでは一級品である彼のジャンプシュートに、なるべく頼らないように念を押した。

「エイブリーは少し古風な手法を持ち込んだ」ドニー・ネルソンはそう言う。「ピック&ポップしたりスリーを打ったり、ナッシュと一緒にディフェンスを崩壊させたりと、ノビツキーがオフェンスで自由にやることをネリーは許可していたけど、それはナッシュがいたおかげだ。ナッシュがいなくなったからには、ノビツキーは古典的なローポストプレーヤーとしても脅威にならなければならなかった」

「エイブリーが求めていたのは、タフネスだったと思う。ローポストで成長させ、当時のティム・ダンカンのような存在にしようとした。ノビツキーにとってのベストは、中間にあったと思う。今ノビツキーがああいう選手でいられるのはネリーが与えた自由のおかげだ。エイブリーが彼に与えたのは、万力のようなタフさだ」

自由に外から打ちまくっていたネリー時代とは全く対照的であったので、ローポストでプレーするノビツキーは大きく注目を集めた。だが真にジョンソンが賞賛を受けるべきは、ノビツキーの必殺技、ミッドレンジでのアイソレーションを磨いた点だ。03-04シーズンの後、オールスターガードのスティーブ・ナッシュがサンズに移籍していなくなってしまったので、自力で良い形のシュートをクリエイトする能力がノビツキーに必要不可欠になったからだ。

「デンバーからトレードでダラスに来た時、そこには1on1を愛してやまない選手がいたよ」現在アラバマ大のヘッドコーチを務めるジョンソンは、同大のオフィスでそう語った。「ネリーのシステムでは、基本オフェンスではボールを運んだらすぐにノビツキーにボールを預けるだけだったんだ。思ったよ。もしいくつかのミスディレクションを織り交ぜて、ディフェンスのバランスを崩し、4、5個のパスで動きを作った後にノビツキーにボールを預けることができたら……ってね」

「単純なアイソレーションを偏重したかったわけではない。ディフェンスを動かすことができたら、ダークがアイソレーションをする時に、彼が神に授かった全ての才能を発揮するのに適切なスペーシングが取れるだろうって考えたんだ」

ノビツキーが平均得点で自己最多(26.6点)を記録したのは、ジョンソンが通年ヘッドコーチを務めた最初の年であり、マブスが初のファイナル出場を果たした05-06シーズンだった。ノビツキーはその翌年MVPを受賞し、チームは球団記録の67勝を上げた。

その後ノビツキーとジョンソンの関係はこじれることになるが、その理由の1つにジョンソンとゲシュヴィントナーの衝突があった。当時ヘッドコーチのキャリア勝率で歴代1位でありながら、08年のプレーオフ1stラウンドで敗れた翌日に解雇されたジョンソンは、今ではダークの道のりの手助けをしたゲシュヴィントナーのことを賞賛している。

そしてノビツキーの方も、今ではジョンソンの押しの強いアプローチに感謝している。

「エイブリーが俺のゲームを新たな次元へ引き上げてくれた」ノビツキーは語る。「彼は俺にとても厳しく当たったが、俺にいろいろなことができるように強いてくれた。当時スリーを打つことから離れたのは今でも少し残念に思っているが、そのことは同時に、俺のポストアップの技術を伸ばしてくれた。スイッチへの対処も伸ばしてくれた。フリースローラインの位置からのアイソレーションはエイブリーと始めたんだ、本当に。それに取り組んだおかげで動けるようになったし、小さい選手の上から打つことも、リングに向かうことも、ファールを多く貰うこともできるようになった。ジャンプシュートをたくさん打つ代わりに、フリースローを稼いで、勝ちに繋がるバスケをすること、それが彼が求めたことだった」

「彼は厳格な人物だったが、それと同じくらい厳格に、俺をオールラウンドな選手に指導してくれた」

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3人目:カーライルの助言と"The Dirk"の誕生

ヘッドコーチとして招牌されるよりも前に、オーナーのマーク・キューバンの部屋で、リック・カーライルはフランチャイズの顔と対面した。

それはカーライルとノビツキーがちゃんと言葉を交わした最初の機会だったが、カーライルはすぐに、彼の元チームメイトのラリー・バードがスペースを作り出すために使っていた技術を、ノビツキーに紹介してみせた。

ヘッドコーチになることが決定してすぐ、カーライルはドイツ行きを決めた。バードのハイライトを収めたDVDを手に。

「理論的には、バードがやっていたあることが、ノビツキーにとっても凄くプラスになると思ったんだ」カーライルはシュートアラウンド後に彼のオフィスでそう答えた。「それは、フロアの特定の場所、1個か2個のムーブで、守りようがなくなる場所を持つことだった。彼の場合、それは右サイドのロングポストだった」

「ダークとホルガーには、そのコンセプトに基づいて練習するように求めたよ。夏を終えて戻ってきた時、その時だった。片足フェイダウェイが生まれたと言えるのは」

ドニー・ネルソンは、カーライルのことを「それまでの2人のコーチの間の完璧なバランス」と評した。カーライルはネリーのようなオフェンスでのクリエイティビティと、ジョンソンのような規律と構築とを持ち合わせていた。

また、両コーチがダークのためにデザインしたプレーの多くを、カーライルは借用した。最初のシーズンではフリースローラインからのアイソレーションをコールせず、後にそれは過ちだったと本人も認めているが、優勝した2011年のハイライトには多く見られる。時の翁がドリブルでディフェンスを抜き去るスピードをノビツキーから奪ってしまった最近まで、それらのプレーはマブスの生命線となるセットだった。ジェイソン・キッドがポイントガードを務める状況では、カーライルはしばしば長い時間プレーをコールすることなく、オフェンスを自由な流れに任せた。そこではネリー式のピック&ポップが多く見られた。

「リックは全てを融合させたといつも思っているよ」38歳の今季、フロアを広げるためセンターにコンバートしたノビツキーはそう言う。「アイソレーションもポストアップも残しながら、彼は再び俺に自由にスリーを打たせてくれた。彼はどんなショットにも本当に文句を言わないんだ。まあ、たまに俺が悪いステップバックを打つと、『もうちょっと良いショットを打つように努めた方がいいと思うな』くらいに言うんだけど、それを除けば彼は俺が何するのも自由にしてくれる。長距離から打つのも、ポストアップも、ペネトレーションも」

「間違いなく、彼はあのメンバーを優勝に導いたコーチとして、人々の記憶に残るだろうね」

ノビツキーもまた、NBA史上でも有数のスコアラーとして記憶されるだろう。外からのシュートによってバスケに革命を起こした7フッターとして、そして、キャリアを通して技術を増やし続けた選手としても。

「ダークの偉大さのうち忘れられそうなのは、彼がどれだけ優れた1on1プレイヤーかってことだ」カーライルは言う。「大げさに聞こえるかもしれないが、私の中では彼はNBA史上トップ8~10に入るくらいの1on1プレイヤーだ。ボールを渡せば彼はシュートを作り出し、その大多数を沈めてみせる。フリースローラインからのアイソレーションは伝説的だ。20年にも渡って、アンストッパブルであり続けた」

「彼の得点の取り方ーードライブ、ステップバック、ミッドレンジ、ロング2、スリー、スリーのフェイクからのプルアップーーは、バスケ史上のどの選手の武器とも違う、特別だ」