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現代物理学の巨人、仁科博士(パート2:日本学術会議と軍学共同研究)

戦時中陸軍からの要請で原爆研究を行った仁科博士だが、それ以外の業績があまり知られていない。仁科博士は個人としては当時世界トップクラスの研究者であり、チームとして、あるいは育てた後進は、湯川秀樹や朝永振一郎などノーベル賞賞受賞者やノーベル賞級の学者など枚挙すればいとまない。日本が生んだ物理学の巨人だった。
このことは、前の記事、パート1で既に述べた。
ここでは同じく仁科博士の伝記「励起」(みすず書房)を元に、戦後、仁科博士が設立に大きく関わった日本学術会議について考えを述べてみたい。

日本学術会議は日本を代表する最高の学術機関で、政府の資金で運営されている政府機関でもある。
研究者の研究交流や支援を行うことに加えて、政府に対して科学政策などを政策提言する役割があり、例えば原子力研究三原則など実際の科学政策の方向性を位置付けてきた。
海外でも同様の機関があり、アメリカの全米科学アカデミーやイギリスの王立協会学術などである。
会員は、学術会議内で検討され、内閣によって任命される。昨今菅政権時に任命拒否事件が起き、大きな反響を呼んだ。
最近も学術会議の組織変更、独立法人化を提言した中間報告が出されて、議論を呼んでいる。
国の機関として生まれた組織だが、会員任命拒否や独立法人化構想など政府との関係がうまくいっていない。
独立性の確保と国策の関係で揉めているのだ。
学問や科学研究において、何においても自由であること、就中、国からの自由は重要だ。その一方で巨大化する科学技術研究は国からの支援も必要だし、また国策上も科学技術振興は重要な政策であるから、国との協力関係も国民としては期待したいところだ。
なのにどうしてうまくいかないのか?

これは一般には、安倍政権以降の自民党政権の右傾化に原因があると論じられることが多い。
政権が進める安全保障戦略強化に、学術会議側が協力的でないからである。
その争点が、軍産共同研究の可否だろう。
軍産共同研究とは、大学などの研究機関と自衛隊など軍が共同して軍事技術開発を行うこと。
海外では普通のことだが、なぜかというと科学技術の開発でこれは軍事技術、これは民生技術という分け方が今や成立しないからだが、日本では未だ禁止ないし、推奨されてない。
国は大学など研究機関に、もっと軍事技術を含む研究を強化したい。あるいは研究成果を軍事にも活かしたい。ところが学術会議側は、戦後以来の方針である、「平和主義」の立場から、科学技術の軍事利用は認められない立場だ。
ここが、学術会議と政府の関係を対立させている大きな要因だろう。
これは、国会での9条をめぐる対立に似た構造がある。

私は、この問題を考えるには、今の政権の右傾化という事象をみるだけでは不十分と思う。
軍学共同研究を最近強く主張しているのは、確かに自民党保守派ではあるが、そこだけみるのではなく、学術会議のそもそもの設立の経緯から考えてみる必要がある。学術会議の設立の経緯はかなり異例であって、そこから見直さないと事は判断できないという風に私は思う。

軍産共同研究の可否に大きく影響することになる、学術会議の「平和主義」について考えてみたい。

というわけで、仁科博士も関わった日本学術会議の設立を見てみよう。

設立は戦後の占領期で、戦後国内的にも国際的にも日本を代表する学者だった仁科博士は設立に大きく関った。そのことは当然なのだが、驚くのは、設立を主導したのは、仁科博士ではなく、占領軍のアメリカだった。主導だけでなく、活動内容や会員の選定にも一々指示しているのだ。
いくら国を代表するアカデミーとはいえ、なぜに一学会の設立に、占領軍が関わったのか。
経緯を見てみよう。

仁科博士も敗戦直後から、学者の組合という言い方で、海外にあるアカデミーのような組織を構想していた。だが、実際に日本学術会議を創設するアクションを起こしたのは、日本の学者たちではなく、当時のGHQの科学技術部長のC.ケリーだった。ケリーはアメリカの大学で物理学の博士号を取得した研究者でもあり、親交があった仁科博士を巻き込み、日本の学会にアプローチし、組織化に動き出す。方向性を定め、メンバー構成に介入し、時にNGを出すなどして、占領下の1949年に日本学術会議を設立に導いたのだった。
(詳しくは、本書「励起」下巻参照)

なぜ学術団体の組織化までGHQが乗り出したか?
第二次大戦を通して科学技術の動向は、軍事的にとても大きな影響を持つに至った。その一番が大勢の研究者を動員して開発した原爆である。
科学技術が戦争に与える影響が極めて甚大なことが周知となる中、そのコントロールは、軍の廃止や軍備の制限と同様に重要となる。つまり、GHQは、日本が再び強大な軍事的ライバルになるのを防ぐために、日本の科学技術をコントロールするツールが必要で、それゆえ、学術会議が必要だったのである。
ケリーが主導した学術会議設立時の方向性は、「民主化」と「平和主義」であった。
「民主化」は別として、問題は「平和主義」である。
この場合の「平和主義」とは、国連憲章に言うような今日の平和主義とは違う。ここで言う「平和主義」とは、正確には非産業化というような意味だ。重工業や化学工業など近代産業を禁止して、日本を農業や軽工業などが中心の国にする。
そういう内容を含む、つまり近代的軍隊がないばかりでなく、二度と作りあげられないよう、産業や科学技術すら変えてしまう、そういう「平和主義」なのである。
実際当時のGHQの日本再建の方針は、こういう方向で、だから飛行機産業だけでなく、自動車産業や化学産業まで広く禁止された。実際日本を明治維新前、江戸時代に戻すことが目標だったのである。
ただこの方針は、その後冷戦勃発後、急速に見直されて、ゆえに今日の日本の発展がある。

学術会議が目指す「平和主義」とは、こういう事象を指す中で方針決議されたことなのである。日本学術会議は、軍事技術への応用可能な分野は排除されるなど、制約を大きく課した方向で生まれた組織なのだった。
もちろん、仁科博士ら日本の主要な学者もその二つに異論なく、むしろ率先して方針を賛成した。GHQが圧力をかけたというよりは、日本の学者の賛意もあった。それは、戦時中の軍中心の体制への反発や反省があったからだ。

特に仁科博士は、自分もトップの原子物理学者であり、途中で断念したとはいえ、一時原爆の基礎研究にあたっていた。さらに敗戦直前、物理学者として初めて原爆投下直後の広島に入って、調査にあたった。悲惨な光景を目にして、研究者として重い責任を持っただろう。
仁科博士が平和志向に立ち、当時の「平和主義」を標榜するのは、大いに理解できる。

であるが、日本学術会議の設立の背景から考える時に、いつも同じ思考でいいのか?と考える。
日本を明治維新前に戻してやる!という思考で作られたモノに、いつまでも引きづられるのは、よした方がいい。

平和主義は否定するのものではない。それは軍産共同研究を認めている各国のアカデミーも平和主義の立場に立つ。研究の公開や成果の利用について議論している。しかし研究そのものは禁止していない。
非産業化する意味での「平和主義」はやはり行き過ぎである。結局科学や技術の研究においては、行き過ぎた制約を課すのは上策ではなく、時代の趨勢に合わせざるを得ないのだろう。


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