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伊都国女王墓ビジット

先週末、知人の訃報を受け、帰郷した際、時間が空いたので、念願の糸島市の遺跡に訪れた。
邪馬台国記事で有名な中国の歴史書三国志魏志倭人伝に出てくる、伊都国の遺跡である。
伊都国は、今福岡で話題のエリア、糸島市内陸部。ちなみに、海岸部は、志摩と呼ばれ、伊都と志摩で糸島の名前の由来となっている。
三国志によれば、伊都国は首長国連合である邪馬台国の大国で、中国や朝鮮と外交交渉を担った長官・組織(一大卒)があったという。
魏志倭人伝の記述を考古学的に裏付ける一大遺跡都市のひとつが伊都国である(もうひとつは、お隣の奴国、福岡市)。
後漢の朝鮮半島支配機関、楽浪郡(後に帯方郡)との交流、交易も盛んで、楽浪焼という特有の土器も多く産出している。
後漢や朝鮮諸国との交流を示すものは多くは北部九州に産出し、特に後漢時代の外交相手である楽浪郡との交流を示す楽浪系土器が、北部九州を中心に、東は出雲や松江までで、近畿や中部などでは全く見られないことを有力な証拠として、邪馬台国九州説を唱える学者(坂靖氏)もいる。
確かに、邪馬台国なら楽浪郡とは深い交流があったはずで、その遺物が近畿で全く発見されてないのは、邪馬台国近畿説の難点である。
伊都国の遺跡では歴代の王墓のいくつかが発見されているが、その中でも注目されるのが、平原遺跡。日本最大級の鏡(超大型内行花文鏡)が出土し、鏡の総数も40鏡と多数埋蔵されていた。

副葬品の種類から埋葬者は女性で、女王墓として知られる。女王墓の建築時期は、弥生時代の最終時期とされ、邪馬台国の時期につながっている。卑弥呼などが存在した同時期の女王の可能性が高い(もちろん、卑弥呼ではない)。

女王墓の埋納状況の再現が近隣の伊都国歴史博物館で見ることができる。

伊都国女王墓内部再現

鏡は細かく割られ、女王の遺体をいれた甕棺は、日の出の方角に沿って安置されていた。太陽信仰との関係が深いのである。

糸島は海岸部中心に温暖な気候と食の豊かさで、人気のエリアとなっているが、内陸部も目が離せないのである(気候と食の豊かさは、古代も同様で伊都国の繫栄にも納得がいく)。


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