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大学生とウィキペディア

  • 初出:Uraniwa「[[栃木県庁の移転]]の立項:大学生とウィキペディア」『弥生史談』第1号、千葉大学歴史研究会、2022年11月、73–82頁。軽微な修正を加えている。

  • 冒頭画像:宇都宮に移転した当初の栃木県庁舎(田代善吉『栃木縣史』第五巻政治編、下野史談会、1935年、巻頭。[[File:Tochigi Prefectural Government Office, 1885.jpg]] via Wikimedia Commons)


Ⅰ.はじめに

「ウィキペディア」(Wikipedia)は、誰でも編集可能なインターネット上のフリー百科事典である。アメリカ合衆国に本部を置くウィキメディア財団(Wikimedia Foundation)が2001年に英語版を開設して以来、他言語にも規模を拡大した。2022年10月現在は約300言語で提供され、そのひとつである日本語版には134万以上の項目が存在する。

筆者は2016年11月に [[利用者:うらにわ]] としてアカウントを取得し(2022年7月 [[利用者:Uraniwa]] へ改名)、栃木県の郷土史関連の項目を中心に編集・立項を行ってきた。2022年5月20日には、大学へ提出したレポートを原型として [[栃木県庁の移転]] と題する記事を作成し、同記事は同月の月間新記事賞を受賞、翌月には有志編集者らによる選考を通過して「良質な記事」に選出された。

大学の学部生は、講義で出されるレポート課題の提出のため、学術的な調査に時間を割く機会が多いはずである。この小論ではこの立項の経緯を記述して、学部生たちによる調査の成果をウィキペディアへ反映する活動の可能性を探る。そもそもウィキペディアは、周知の通り、現状信頼に足る情報源とは言い難いが、多くの人が気軽にアクセスする知識の入り口として、学術と情報の関係を語る上で無視できない存在になっている。ウィキペディアの編集という活動は、フリーな知識を日本中ひいては世界中へ提供するという大きな目標へ向かっているが、これに大学への提出課題の成果を反映することで、検証可能な事実についての上質な記述をその一角へ加え、ウィキペディアの内容を向上させることができると期待する。

Ⅱ.用語について

このエッセイに登場する約物や用語などについて説明を加える必要がある。

ウィキペディアは、ウィキテキスト(Wikitext)というマークアップ言語で記述されている。例を挙げると、ある記事の中で「栃木県庁の移転」という名の別の記事へのリンクを作りたいなら、記事名を2つの半角角括弧で囲み、[[栃木県庁の移転]] と記述する。これを由来として、ウィキペディアの記事について言及する際にはその記事名を [[ ]] で囲って表記するのが通例となっている。本稿に登場するウィキペディアの記事名は原則これに従って記述し、URLの明記を省略する(ただし引用の出処を除く)。

次に、ウィキペディアには優れた記事を対象とする顕彰企画が複数組まれているが、その一部を概説する。新しく立てられた記事は [[Wikipedia:メインページ新着投票所]] で投票にかけられ、多くの推薦を集めた記事はメインページの「新しい記事」の欄に表示される。ここに表示された記事を候補として月ごとに [[Wikipedia:月間新記事賞]] で投票が行われ、「月間新記事賞」が与えられる。月間新記事賞の受賞記事は自動的に [[Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考]] に推薦され、選考を通過すると「良質な記事」(Good articles, GA)となる。その上位に「秀逸な記事」(Featured articles, FA)があり、良質な記事の中でも特に優れた記事が推薦・選出される。

Ⅲ.立項の経緯

1.「入門レポート」

千葉大学文学部人文学科歴史学コースでは、第1年次の年間にわたる課題として「入門レポート」が課される。テーマを各自で決定し、調査を行って4,000字以内のレポートにまとめるもので、いわゆる調べ学習の延長線上にあるものと言える。

2021年度、当時第1年次だった筆者が選んだテーマは「明治初頭における栃木県庁の移転について」であった。現在の栃木県が成立した1873年(明治6年)当時、栃木県庁は県南の栃木町に所在したが、県央の宇都宮町を中心として移転運動が起こり、1884年(明治17年)に宇都宮町へ移転された。地理的に位置が偏っていたことや、県令三島通庸が栃木町の自由党員の多さを嫌ったことなどが原因と思われる。明治維新からその直後にかけて地域社会で見られた激しい情勢変動を象徴する出来事と言える。大学へ提出したレポートは、このエッセイ本文の後に添付する。

筆者は草稿の作成に取り掛かったが、書き終えてみると字数が7,000字弱に達し、規定の4,000字に収めるまで短縮する必要に迫られた。そのために枝葉末節を切り落とすにあたって、せっかく調べ上げた細かい情報たちに対する哀惜の念が起こったのは自然の成り行きである。そこで思いついたのが、調査成果をウィキペディアへ公開するというアイデアだった。

2.修正

筆者自身による研究が詰まったレポートを“健全な”ウィキペディアの記事として公開するためには、大幅な修正が必要となる。というのも、ウィキペディアには「方針」及び「ガイドライン」と呼ばれる諸ルールが制定されており、寄稿にあたって(特に前者は)遵守することが求められる。

それら諸ルールの基礎として以下の「三大方針」が定められており、ウィキペディアにおけるルールの概略とも言える存在になっている。なお、方針の名称の後に続けている括弧内の文字列は、それぞれの方針に割り振られた「ショートカット」であり、方針の略号のようなものであると理解してよい。例えばウィキペディアの検索ボックス(グーグルの検索ボックスでも可)にこれを入力することで、それぞれの方針を説明する文書へ簡便にアクセスできる。

① 中立的な観点(WP:NPOV)

ウィキペディアが目指すところは、論争を記述することであり、論争に加わることではありません。

「Wikipedia:中立的な観点」『ウィキペディア日本語版』より2022年10月15日取得
(https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=Wikipedia:中立的な観点&oldid=90340027)

ウィキペディアは何かしらの意見や立場に味方するものであってはならない、という方針である。一見簡単そうだが、中立的な観点とは何か、そもそも存在するのか否か、という議論がある。中立を実践するならば差し当たり「両論併記」で済むはずだが、大きい主題を扱う場合は取り上げることのできる意見が無数にあり、編集者としては自然と取捨選択せざるを得ないから、何を載せるかによって自然と中立性が損なわれる場合がある。集合知のフィルターに繰り返しくぐらせて改善するほかないが、それでもこの点は永遠の課題である。

② 独自研究は載せない(WP:NOR)

ウィキペディアで公開されるいかなる事実、理念、意見、解釈、定義、評論、考察、推測、論証も、信頼できる媒体において、その記事の主題に関連する形で、既に発表されていなければなりません。

「Wikipedia:独自研究は載せない」『ウィキペディア日本語版』より2022年10月15日取得
(https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=Wikipedia:独自研究は載せない&oldid=90329581)

「独自研究」は読んで字のごとく、記事の執筆者その他の人物による独自の研究や自分の意見・感想のことであり、「信頼できる公刊された情報源」に載っていない、未発表の内容のことを指す。

本来、論文というものは独自研究を豊富に含んでいるし、むしろそれがなくては学術発展への寄与が少ないから、一般的には論文自体の価値さえ低くなる。一方で、ウィキペディアは既存の研究成果のみを参照・記述することを旨とするので、執筆者の私論は混じらないようにする。ただ、執筆者がその分野の専門家で、公刊された論文などを書いている場合には、その論文を出典として添えた内容を書くことができる。

③ 検証可能性(WP:V)

記事を執筆する際は、閲覧者や他の編集者が内容を検証できるよう信頼できる情報源(例えば、査読制度のある雑誌や新聞)にあたり、出典を明記するべきです。

「Wikipedia:検証可能性」『ウィキペディア日本語版』より2022年10月15日取得
(https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=Wikipedia:検証可能性&oldid=90340143)

「出典の明記」は大切な要素である。ウィキペディアに記述される情報のひとつひとつには、信頼できる公刊された出典を、脚注で紐付けなくてはならない。脚注は記事の末尾にまとめて表示できる機能がある。「参考文献」という節を作って文献を羅列しただけの記事があるが、全体にわたって徹底した「脚注」の節とセットでなければ、いま一歩物足りないということになる。

もともと「入門レポート」では脚注の使用が奨励されていたので、私はそれに従って脚注を付けていた。記事公開にあたってはこれをウィキテキストに変換するだけで済んだ。

Ⅳ.記事について

2022年10月15日現在における記事 [[栃木県庁の移転]] の内容は、「良質な記事」に選出された当時からあまり姿を変えておらず、節ごとにまとめると次のとおりである。なお、実際にウィキペディアで表示される節のナンバリングに準じて、導入部を0とし、その次の節から1、2、……と数えていることに注意されたい。

0.導入部

導入部は序論にあたる。導入部の第1段落は、太字にした記事名に続けて、括弧内にその読み仮名を明記することをもって書き始めることが定められている(WP:LEADPARAGRAPH)。それから記事の内容の概要を記す。概要が長大になる場合には「概要」という節を設ける場合もあるが、今回は短く済んだ。なおこの記事では、筆者が当時の栃木県の略図を制作し、導入部に添えた。

1.両町の概要

本論で最初になすべきことは、前提知識の補完であろうと思った。移転問題の当事者である、下都賀郡栃木・河内郡宇都宮両町の概要を説明することにした。

ここで問題となったのは人口の記述である。記事中にも注記したが、町と郡の人口は陸軍省参謀本部『共武政表』(明治13年、上、第26)から引用している。しかしこの資料は寄留人口の扱いを規定する前にまとめられたため、本籍人口と寄留人口を重複して数えてしまい、明らかに数値が過大になっている。そのため、より実態に近いと思われる内務省総務局戸籍課『日本全国人口表』(明治13年1月1日調、pp. 20-21.)における郡の人口も併記したが、こちらでは町ごとの人口は明らかでないため、あくまで参考数値にしかならない(表1)。

当初、陸軍省参謀本部『徴発物件一覧表』(明治17年)の参照を試みたが、各町内の小区画ごとのデータとして記されていた。通常のレポートならば該当地域内の数字を足し合わせて算出することが許されるだろうが、当時の町域の定義は調査者の力量に委ねられる。ウィキペディアに記載する情報についてこれに踏み切ると独自研究ないし情報の合成に当たる恐れがあるため、避けることにした。

表1:『共武政表』および『日本全国人口表』による各郡・町の人口

2.県庁の設置と移転の経緯

2-1. 栃木町への県庁設置の経緯

真岡代官所を廃止したあとの幕領を管轄するために真岡県が設置され、その管掌が拡大するにつれて県庁の位置も宇都宮・真岡→石橋→日光→栃木と変遷し、廃藩置県にあたっては北部宇都宮県と南部栃木県が分立して、最終的に栃木町に県庁所在地を置く栃木県に統一した。

2-2. 宇都宮町への県庁移転の経緯

初代県令の死後、宇都宮を擁する県央の河内郡や県北の各郡で県庁移転を求める運動が発足。20か月間ほど膠着したが、3代県令・三島通庸の赴任後、直ちに移転が実行に移された。

3.移転の理由

当時の移転反対派のひとりが、新聞への投書で移転賛成論の要点を5か条にまとめていたので、節のはじめでこれを引用した。それらがおおむね地理・政治・経済の3つに分類できると感じたため、この節の中では「地理的理由」と「政治・経済的理由」の2つの節を設けた。政治的理由と経済的理由の間の線引きは曖昧であるため、統合してしまった。

3-1.地理的理由

県都は県の中央部にあるべきものであるという前提のもと、旧上野国の一部地域が栃木県と群馬県の間で所属を左右したため、それに伴って栃木町が県の中央部と目されるか否かが変遷し、議論の的となった。

3-2.政治・経済的理由

宇都宮町の方が経済規模が大きく、位置的に県北の開拓に便利であるという積極的理由と、栃木町では自由民権運動が盛んであるという消極的理由が挙げられた。

4.年譜

大学に提出したレポートには年譜は付けなかったが、これがあったほうが時系列の整理に役立ち、読者の理解を助けるだろうと思い立ち、作業の終盤で用意した。

5.脚注

5-1. 注釈
5-2. 出典

ウィキテキストに関する専門的な話になるが、この記事の出典脚注は、下記の「6. 参考文献」節にあるテンプレート {{Cite book}} の引数refに {{SfnRef|編著者名|発行年}} を指定し、本文中に {{Sfn|編著者名|発行年|pもしくはpp=ページ番号}} を挿入することでリンクさせた。これによって本文中の脚注はハーバード方式でページ内リンクになり、クリックすることで該当する参考文献の情報にジャンプできる。

6.参考文献

近年の書籍や論文は寡聞にして少なく、自治体史が中心となった。

Ⅴ.活動の利点

大学での活動成果をウィキペディアへ反映することの利点は、何よりも記事の質の担保にある。フリー百科事典であるウィキペディアの記事では、特に情報の出典・参考文献の明記が不十分な記事が多く、平均的に見ても良質であるとはとても言えない。この中にあって、より良く書かれた記事が増える動きは貴重である。

私の場合、第1年次の集大成として大学へ提出する課題ということもあって、入門レポートの執筆には真摯な調査姿勢をもって当たったつもりである。その上で、たとえ大学への提出の時点では粗が残っていたとしても、ボランティア活動であるウィキペディアに締め切りはないので、改善作業には十分な時間を割くことができた。

Ⅵ.課題

1.要求される方針理解

この試みにおける課題は、いずれも「大学のレポート」と「ウィキペディアの記事」にそれぞれ求められる性格の違いからくるものである。前述のとおり立項にあたってはレポートの体裁から記事の体裁へ編み直す作業が必要になったが、この作業に際しては、大言壮語や独自研究の排除というウィキペディアの各編集方針に対する知識と理解が求められ、従ってある程度ウィキペディアに参加した経験がなければ困難であることが想定される。

筆者自身、当記事の「良質な記事」選出に際しての選考の中で、「三島(通庸)による強力な自由党弾圧はよく知られるところだが」という一節が [[Wikipedia:大言壮語をしない]](WP:APT)という方針にかかわる、という真っ当な指摘を受け、訂正を加えなくてはならなかった。

2.誰もが編集できるということ

レポートとウィキペディアのもうひとつの違いは「著者」である。レポートの著者はそのレポートを書いた者と決まっているが、ウィキペディアに公開した記事は立項者の手許を離れ、誰でも手を加えることが可能になる。時にはほぼ全部を書き直されることすらある。従って、ウィキペディアの記事の著者は立項者ではなく「ウィキペディアの執筆者」であり、立項者は「初版」の作成者に過ぎないのである。実際のところ、ウィキペディアでは記事の左側に表示されている「このページを引用」というリンクから書誌情報を表示できるが、「著作者」の項には必ず「ウィキペディアの執筆者」(英語版では“Wikipedia contributors”)と記載されている。[[栃木県庁の移転]] にも、2022年10月15日現在、筆者のほかに4名の手が加わっており、筆者ひとりでこの記事の著作者を名乗ることはできない。

ひとたび立てた記事は自分のものではあり得ず、WP:CC-BY-SAというライセンスのもとで無料で公開され、原稿料も入らないが、それでも自由な知識を広めるために貢献したい者が記事を書く、という場所がウィキペディアである。この点は、時間的余裕のない学生たちにとって執筆の障壁となるかもしれない。

Ⅶ.結び

大学生による調査成果をウィキペディアへ反映する試みは、成功すれば、その成果を学生個人のものとして死蔵させず、最大限に有用な形で世界へ共有することにつながる。しかし成功までには、ウィキペディアの方針の理解と、文書の修正のための長い時間を要し、短期的な活動として行うことは困難である。つまるところ、ウィキペディアン(ウィキペディアの編集者・参加者のこと)として長期的に編集に参画する意志のある者のみ、その通り編集者として活動し、その中で大学における成果も活かしてゆく、という形が現実的であると言える。

こう書くと気の長い話ではあるが、ウィキペディアは誰もに編集の門戸を開いており、大学生のウィキペディアンサークルも活動しているので、意欲さえあれば参加可能である。興味のある分野について思う存分記述し、世間に公開して役立ててもらいたいという人々の潜在的なパワーに、私は期待する。

参考文献

この文書の著作者であるUraniwaは、この文書をクリエイティブ・コモンズ(表示 - 継承 4.0 国際)ライセンス < https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0/deed > の下で提供します。このライセンスの適用箇所は本誌のpp.73–82.に限定されます。

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転載時注:以下は初出時に添付資料として掲載されたレポート。

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