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いま出来ないことは出来ない

禅や瞑想をする人にとって、苦しみから解放されたい、心の安らぎを得たい、という動機は一つあると思う。

会社(家族)の人間関係であったり、仕事に対する悩み、将来に対する不安であったり。

禅や瞑想というと、自身の心(そういった不安)と向き合って、観察することで、問題(トラブル)が解決する様な気がしてくる。

ただ、当然のことながら、変わるのは「私の受け止め方」であって、「問題(トラブル)そのもの」が存在するという「事実」が消えることはない(受け止め方が変わって問題が生じなくなることはある)。

自身の内側にばかり目が行き、事実に手を付けないでいるうちに、モノゴトが却って悪化することもある。更に問題は大きくなり、なぜもっと早く手を付けなかったのか(打たなかったのか)、と無責任にさえ思われたりする。

自身のキャパ以上の、手に負えないような、大きな問題(トラブル)が生じたとき、むしろ思考は、自然な反応として、それについて考えない様に仕向ける(思考停止になる)。

それでも無理に向き合おうとすると、強制的に(避けようとして)眠くなる(ひどいと病む)。

更に悪いことに、あたかも問題(トラブル)の原因は、悩んでいる本人にあるように言われたり、自身でそう思ったり、することで問題(トラブル)に深く執着してしまう(真面目な人やこだわりの強い人は特に)。

その様な状態のとき、ショックな状況(多くの人の前で叱責されたり、攻められたり)があると、明らかに(キャパを)振り切ってしまうことがある。受け止められなかった分は、他者のせいにしたり(他罰的になる)、最悪の場合、脳や身体に不可逆的な変化をもたらす。

そして、そのようなとき、禅や瞑想には明らかな「目的(逃避)」が生じている。「目的」があるとき、それによる解放や安らぎが生じることもない。

自身でちょっと受け止めきれない、と言うとき、周りに相談する相手や手段があれば良いのだけれど、そうじゃないから苦しい。

昔は社会もそれほど豊かではなく、今ほど医療も発達していなかったから、宗教的なものの果たす役割や意味もあったと思う(今はいろいろな選択肢もあると思います)。

環境を変えることが可能であれば変える、今までとは違った対応を試してみる、ことでうまく行くこともある。専門の医師(これも当たり外れ、合う合わないあると思いますが)にかかる、師に参ずる、あるいは今のそれとは変える、とか。

ずっと誤った(合わない)やり方や、環境に身を置いているより、ちょっと他のやり方へ変えてみるとか、環境を変えることで、何かのきっかけになることはあると思います。

個人個人の置かれている状況や対応も異なり、なかなか難しいところでもありますが(もし何かしらのご参考にあれば)。

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カレン(私≠思考)

ブログで思考を切り口に 悟り(PNSE、継続的非記号体験)、AI、精神転送 等の考察をしています。【ブログ】→ https://iniwano.net/

考察

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