カレン(私≠思考)

伊庭野(いばの)カレン。思考を切り口に 悟り(PNSE、継続的非記号体験)、禅、瞑想、…

カレン(私≠思考)

伊庭野(いばの)カレン。思考を切り口に 悟り(PNSE、継続的非記号体験)、禅、瞑想、AI、仮想現実(シミュレーテッドリアリティ) 等の考察をしています。ブログ(私≠思考)は2019年12月3日に閉鎖しました(マガジン「私≠思考」へ過去記事を少しづつ転記)。

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悟りとは(PNSE、継続的非記号体験)

悟り(PNSE、継続的非記号体験)とは自身の本質(働き)が明らかになること。以下の様な自覚が現れます。 ・悟りや真実についての探求が止む(ハッキリする) ・思考の過程が明らかになり、悩みや不安に捉われなくなる ・モノゴトの良し悪しに拘らなくなる 思考を消せば悟りか悟り=無我(私がない)というイメージから、悟ることで「私」や思考そのものが消えてしまうかの様に考える人がいます。 そもそも思考とは、生きるための「機能」に過ぎず、「私」という思考する実体はありません。 「私」

    • 心(魂)はどこにあるか

      本来の自分は次のようなものだとする。 ・何事にも限定されず、無限の拡がりを持っている ・いつ生まれたか分からず、死ぬこともない 私たちはこの身体や心(物心)を自分自身だと思っている。 身体は物理的に限定されている。 心(物心)は不安や悩みで推し潰される(そこまで拡がらない)。 いつ生まれたか分かる。 身体は老いるし、病気になるし、死んで灰になる。 とすると、この心身が私である、という考え方が間違いだろうか。 良く言われるように、全てに固定的な実体はなく、従っ

      • 意識を機械にアップロードできるか③

        どの様な条件が揃えば意識が生じるだろうか。 条件が分かれば、それを満たす方法が見つかるかも知れない。 私には意識がある(から条件を検証できる)。 私には意識がある、とは、私の中のどこかに意識があると言うことだろうか。 そもそも私とは何を指すのだろうか。 多くの人は、この身心(特に脳)を私だと思っている。 なので脳を模した構造物に電気を流そうなどと考える。 確かに、ある条件を満たせば、脳から生じるかもしれない。 脳から生じると言うか、脳の働きによって、何処からと

        • 意識を機械にアップロードできるか②

          意識を作り出したことによって、意識を解明したことにはならない。 生じさせることはできるだろう。 なぜ生じるかは分からないだろう。 そもそも今はまだ、作り方が分からない。 人を模した人工物に電気を流せば、意識が生じるかも知れない。 条件は様々あるだろう。 物理的な素材、構造、電気が必要であるなら、コンピューター上のシミュレートでは難しいかも知れない(この世界が基底現実であったとして)。 シミュレートした構造物に電気は流せない。 意識のように振る舞うAIは作れるか

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        悟りとは(PNSE、継続的非記号体験)

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          意識を機械にアップロードできるか

          ブログ(私≠思考)でやってた思考実験だけど、本当にやろうとしている人がいるとは思わなかった。 しかも思っていたより相当早く、やってみるつもりらしい。 いろいろ試してみたい気もする。 他人の意識と混じり合わせたらどうなるんだろう。 複数の意識が混じりあうのか。 複数の人格を持つようになるのか。 こっちの世界とあっちの世界(デジタルの世界)を遮断することも出来るだろう。 アップロードした人格ではなく、人工的な人格だった場合、その個体はデジタルの世界しか知り得ない。

          意識を機械にアップロードできるか

          「前の思い」と「今の思い」は「同じ思い」かについての考察②

          動いているモノを見ているとき、見ている私は止まっている。 モノと同じ速さで動くとき、見ているモノは動いていない(と感じる)。 思いが続いていると感じるとき、絶えず思いは動いて(変化して)いる。 思いが変化しているとき、思っている私は動いて(変化して)いない。 私が変化していないとはどういうことか。 さっき思っていた私と、いま思っている私を、おなじ私だといま思っている(そうみなしている)。 変化する思いにあわせ、私も変化するとしたら、おなじ私はいない。 眠る前と起

          「前の思い」と「今の思い」は「同じ思い」かについての考察②

          「前の思い」と「今の思い」は「同じ思い」かについての考察

          今の様子、事実、あるがまま。 そのまま手付かずであれば問題ない。 事実の中に迷いはない。 「○」を見て、視覚は「○かな、△かな」と悩まない。 ズバッと「○」にみえる。 思いも事実。 浮かんでは消え、消えては浮かぶ。 ポッと出た思いは放っておけばすぐ消えるけど、思いが連なることがある。 「前の思い」と「今の思い」は繋がっている(関連がある)と思う。 「この思いはさっきと同じ思いの続きだ」と思う。 同じ思いを再認していると思う。 すると思いが続いているように

          「前の思い」と「今の思い」は「同じ思い」かについての考察

          なぜ意図を働かさざるを得ないと感じるのかについての考察②

          感覚から入ってくる情報が、私の中にさまざまな知覚を引き起こす。 全ての観念はこれらの知覚をもとに作られる。 知覚はあらゆる観念の根源的な素材と言える。 (それ以外の(抽象(複合)的なものを含む)観念は全て経験に帰する。) 知覚は外界の情報を感知するセンサーのような働きをする。 目が覚めている限り、意図する、しないに関わらず、あらゆる刺激に反応する。 そうして知覚された全ての情報を「私」が認識することはない。 視界の隅に映っている(はずの)対象を私は認識しない。

          なぜ意図を働かさざるを得ないと感じるのかについての考察②

          なぜ意図を働かさざるを得ないと感じるのかについての考察

          いまの様子、あるがまま、いまのままで良いなら禅や瞑想をする必要はないはず。 それでもここではない、どこか別の境地を求めてしまう。 その様な意図を働かせずにいることは困難に感じる。 生命ならば「生きろ」という衝動(動機)に必ず突き動かされている。 生きるためには、絶えず外界の様子を観察し、判断(選択)しなければならない。 五感で感知した内容(知覚)を、苦か、苦ではないかの基準でによって振り分ける。 あらゆる対象が私を刺激するたび、ある特定のパターンの反応(想念)を返

          なぜ意図を働かさざるを得ないと感じるのかについての考察

          (事実は)経験しなければ分からないとはどういことか③

          光や色、音、匂、味、触覚等を知覚し、そこから得られる心象だけが、現前する対象(モノ)の全てとも言える。 あらゆる観念は知覚から(二次的に)生じている。 それだけが独立して、知覚より先に存在することはない(知覚=事実と近い意味で使っています)。 知覚より明晰で、ハッキリしているものはない。 たとえば、色の知覚、音の知覚を混同してしまう、などと言うことはない。 曖昧で、混乱した知覚(事実)というものはない。 そうは言っても、幻覚だったり、見た目の大きさ(遠近)だったり

          (事実は)経験しなければ分からないとはどういことか③

          (事実は)経験しなければ分からないとはどういことか②

          あるのはこれ(事実)だけなんだけど、ここからいろんな機能が働くことによって、様々な思考、観念、概念が二次的に生じる。 ある特定の対象が現れ、それを知覚する度、いつも同じ心象が心に生じる。 何度も繰り返すうち、それらを引き起こす原因(対象の知覚)なしに、イメージだけを思い出せるようになる。 この思い出すと言う働きによって、(経験から)二次的に生じただけの心像を、あたかも実体とし存在しているかの様に感じ始める。 イメージに過ぎない心像(≠心象)と事実とを混同する。 お茶

          (事実は)経験しなければ分からないとはどういことか②

          (事実は)経験しなければ分からないとはどういことか

          言葉では言い表せない、経験しなければ分からない(だから実践あるのみ)と言われると、とても神秘的で難しそうな話に感じる。 こういう言い回しがコトを難しくしている気もする。 身体で覚えた方が早い人、理屈から入る人、いろんなタイプの人がある。 そもそも何かを教わる(教える)ためには言葉を介すのであって、(言葉では)ムリと言う人も、言葉で説明している。 そもそも言葉では言い表せない、とはどういうことか。 それぞれの人の経験や考え方によって、言葉に対しいろんな解釈をすることが

          (事実は)経験しなければ分からないとはどういことか

          自他の区別が生じる前はどのような状態であったか③

          ミルクという対象と、ミルクの味という性質を、私の外にあるものとして切り離す(心の中で分別する)。 何度もミルクとミルクの味が一緒に立ち現れては消える経験が積み重なる。 すると、ミルクを見ただけでミルクの味が(自動的に)思い出される様になる。 更にミルクのことを思うだけで、ミルクの味を思い出せる様にもなる。 そこまでくると、ミルク、ミルクの味という観念が既に出来上がってしまっている。 もはやミルク(実物)とは別に、思考はミルク(とその味)の観念をいつでも取り扱えるよう

          自他の区別が生じる前はどのような状態であったか③

          自他の区別が生じる前はどのような状態であったか②

          赤ん坊は私という存在を知らない。 その様な状態でミルクを口に含む。 私はいなくても、味は生じる。 味を生じさせた対象(ミルク)が、味とは別に存在することも知らない。 主体も客体もないんだけど、ミルクの味(という知覚)のみ生じる。 心は「〰になる」働きだから、ミルクの味しかないとき、心は、自身がミルクの味になったと感じる。 私=ミルクの味だと感じる。 心が味を感じるのではなく、心は味そのものになる。 心は対象そのものになることで、自身(心)と対象とを存在させる。

          自他の区別が生じる前はどのような状態であったか②

          自他の区別が生じる前はどのような状態であったか

          生まれたばかりの赤ん坊に自他の区別はない。 いつの頃からか、自己を認めた瞬間から(物心ついてから)、自分と自分以外とを区別しはじめる。 一たび自己を認めてからは、モノの見方がそれまでとは変化する。 私を主体とした、対象のある世界に変わる。 モノの見方が変わると、私とは別に、独立した対象があると思い込んでしまう。 あると思うのは習慣的なモノの見方によるものだけど、それ以前のモノの見方を私は覚えていない。 私という思い出す主体は、その様な見方をする以前に存在していない

          自他の区別が生じる前はどのような状態であったか

          哲学と悟り

          哲学は思考を使う。 悟りは思考を使わない。 「思考を消せば悟れる」という考え方は間違いです。 Mon, 04 Jun 2018 10:52:45 +0000