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禅や瞑想で人間関係の問題は解決するか

人間関係の悩みは、自分より劣っていると思う人、優れていると思う人に対して、自分本位で、行き過ぎた期待を抱くことで生じる。

はじめは他人でも、多くの時間を私の家族、同じ会社の人と言う括りで共に過ごす内に、自己同一(所有)化し、意のままに扱おうとする。

やってもらって当たり前と感じる様になり、感謝の気持ちも起こりにくくなる。

親や子供、上司や部下に対し、自分が望む評価(見返り)を求めたり、行動する様に仕向けようとする。

他人より努力している、我慢している、という思いは、望んだ結果(評価)が得られないと、自分に問題があるのではなく、(消去法で)他人や置かれている環境に問題があると思いはじめる。

現実(事実)を「あるがまま」に受け入れられないとき、変えようとしても変えられないとき、代替として禅や瞑想という「手段」に解決策を見出そうとする。

そして、その様な(目的のある)取り組みはうまく行かない。

他人への期待が(問題の)原因だとしたら、どのようにすれば期待せずにいられるか。

逆説的だけど、他人にとことん期待し、見返りを求め、裏切られ、結果、何の解決策にもならないと、(頭で理解するだけではなく)経験するしかない(結構傷つくので注意する)。

多くの人は、思い通りの結果が出ないと、裏切られると嫌だから、(本当に深く)向き合う前に、座禅や瞑想という「手段」に解決策を求めてしまう。

「何故そう感じるのか」を正しく理解するためには、そう感じる自分を深く観察するしかなく、そのためには他がどうしても必要になる。

それを避けたり、別の手段に挿げ替えたりすることで、問題が根本的に解決することはない。

どうしても、経験する必要がある。

正しい正論を言葉で見聞きし、頭で理解することは誰でも出来るが、それだけでは不足する。

釈迦ですら、単に座って(瞑想して)いただだけではなく、むしろ想像を絶する様な、筆舌し難い苦悩があって、はじめて、だと思う。

況や●●をや。

ただ、直接向き合うための準備は人によって様々だろうし、見たくないものを無理やり見ようとしても逆に拗らせる。

何れにしても、私が置かれている環境(をどう解釈するか)は私が決めている。

そうせざるを得なかった、他に選択しはなかった、等の前提条件はいくらでも付けれるけど、それだとスタート地点にすら立てない。

ある特定の手順(メソッド)に従って実践するだけで足りる訳ではない(片輪でしかない)。

直接向き合うことが難しいとき、環境を変えた方が良いこともある。

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