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瞑想難民とその弊害についての考察③

平気ではないのに平気と思い込む。

自分の本音に気付けず、他人に本音を言えなくなる。

なんとなく他人と距離を感じる(距離を置き始める)。

「大丈夫?」と聞かれると「大丈夫です」と答える。

(大丈夫ではない)

大丈夫ではない自分を他人に見られたくない。

ダメな奴だと思われたくない。

トラブルを抱えそう、若しくは抱えていても、助けて下さいと言えない。

(言うと)むしろ他人に迷惑をかけると感じる。

(自分が言われると迷惑に感じるから)

他人とのコミュニケーション、協業が苦手になる。

現状をきちんと説明したり、他人に協力を仰ぐ事が手間に感じる。

(特に仕事などではこれが出来ないと辛い)

自分でやる方が早いし気が楽だと思う。

自分でなんとかなる範囲であればまだいい。

沢山の人と協業しなければならないとき、責任ある立場に置かれたとき、自分ではなく、周りの人が大丈夫じゃなくなる。

プレッシャーを感じる。

うまくいかない。

自分の責任ではないと思う。

周り(職場、学校、社会)が悪いと思う。

思うだけじゃ好転せず、ますます状況が悪くなる。

自分も周りもごまかせなくなる。

しまいに閾値を超えちゃう。

人間関係にトラブルを抱えている場合は更に一気に進む。

一度溢れると、なかなか元に戻らない。

真面目な人、能力が高い人、頭を使うことが好きな人ほど、その傾向が高いかも。

自分でなんとか出来ちゃうから。

出来ないと、精神はなんとかバランスを取り始める。

けれども何が(どこが)問題か分からない。

根っこの方だから(気付きづらい)。

それでも何とかバランスを取ろうと、いろんな対応を取り始める。

辛いから考えなくなる(思考停止)。

周りからは無気力に見える(実際に無気力)。

苦しんでいるコレ(自分)は自分ではないと思う(離人症)。

何事にも興味・関心が持てなくなる(無関心)。

何でも他人ごとに感じる(無責任)。

モノゴトはますます停滞する。

ひどいと鬱や躁になる。

一瞥などで体験を掴んでしまった時も、同じ様なことが起こることがある。

大体は戻ればまた迷いだす。

掴んでしまった、過去の体験を基準にし(問題ない自分)、もう一度それを求め始める。

今は苦しいけど、これは本当ではない。

あの体験こそがあるべき境地だと思う。

じゃぁどうすれば良いんだってなるけど、身近に相談できる人がいれば相談する。

禅や瞑想をするのであれば、きちんとした正師につく(正しく行えているか確認する)。

自分の容量を超えなければ大丈夫だと思うけど。

長い人生、一度や二度の試練は誰にでもある。

苦しいとき、悩んでいる時、良くも悪くも宗教は麻薬と似てる。

バイヤーもいっぱいる。

まぁ、在家でやってるうちは日常は仕事三昧、思考三昧、別に俗世にいることが悪い訳でも何でもない。

それが修行になることもある。

いろんな経験が気づきがあるし。

なんだか取り留めのない感じになってきたけど・・。

何か思いついたら補足します。

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