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孤独を惧れて、自立を。

時差ボケの影響か、まだ夜の23時だというのに。

2023年上半期を端的に表現すると、孤独に恐怖を抱き、憂い、自立しようとして溺れた時間だった。
高校留学の無力で何もできないところからなんとか積み重ねて生き抜いたあの時の感覚とも、素朴ながらにも彩度のあった短大で過ごした時間とも、異なった毛色の時間だった。異質な霧中で泥濘に足を取られて、歩みを止めたら沈んでしまいそうだった。ありもしない正解を探して「考えすぎ」と言われ続けた半年間は、救いと正解を求め続けた時間の裏付けなのかもしれない。


夏の一時帰国を経て、また大学に戻ってきたよ。
日本で過ごした1ヶ月は、久しぶりに歩くスピードを緩めて一息つきながら時の流れに乗れた時間だった。あっという間だと思っていたけれど、意外と自分の中では密度大きめのブックエンドになった気がする。

実はね、ずっと興味があった大曲の花火大会に行ってきたの。男友達と二人だから気を遣うことなく車中泊にして、早朝から運転して、道の駅で買ったはち切れそうなくらいに膨らんだ葡萄を一房摘みながら、いろんなことを話しながら。今更新しい話題なんてないくらい素を出せてるので、それを嫌な顔しながら(照れ隠しだと願ってる)受け入れてくれる彼の人柄と人としての器に甘えている。
花火はもちろん言葉を失うくらいに壮大で、夜空一面に広がる光と数秒遅れて届く音圧は圧巻だった。「打ち上げ花火の後は手元で散る線香花火っしょ」っていう自分のこだわりにも付き合ってくれて、4本の線香花火を半分こ。壮大な花火を最後にしてしまったらきっと心が追いつかないので、もうちょっと距離感の近い線香花火で締めたかったんだ。飲み会の締めのお茶漬け的な、ちょっと違うか。よくわかんないって言い続けながらも、こだわりに付き合ってくれてありがと。


話が飛んじゃうけど、自分が一番誇れることって周りの人に恵まれすぎてるってことなんだよね。幼馴染と呼べる友人が男女4人ずついるのよ。比較したことがないからわからないけど、珍しくない?その幼馴染たちのほとんどにしっかりと時間をとって会うことができたのは、自分の中ですごく救いになったのよね。自分が国内外放浪しがちだったりタイミングを失ったりしてたりで4年以上会えていなかった人もいて、そんな幼馴染とも再会することができた。幼稚園もしくは小学校からの付き合いでずっと途切れずにいるご縁があるんだって、帰っても受け入れてくれる場所があるんだって改めて認識することができた夏休みだった。

冒頭の話に戻ると、上半期の自分は孤独が怖かった。孤独に自ら陥っていたともいえる。人に頼るのが苦手で、周りにいる人の存在を認めていなかった。伝えるのを恐れてた。辛い時に辛いと言えるようになろうとしたけれど、現状を変えれるのは自分しかいないという前提に縛られていた。言葉にするだけで伝わることもあるのに、その可能性を自ら捨ててた。
結局それが遠因となって失ったものもあって、自立しようと誓ったんだよね。ただがむしゃらになって自分のやるべきことに取り組んで、文字の世界に潜り込んで、残ったものに向き合った。でもそれでも帰国するまで自立の感覚は得られてなくて、もどかしかった。

日本で過ごした時間を経て、自立って積み木みたいなもので上位の人格を支える要素となるブロックがいくつもあったり、それらの高さが一定であったり、そうして安定した基礎が構築されていくもんなんだって実感した。そしてそのブロックは自分一人の因子だけじゃなく、周りの人を頼って作りあげてもいいってことにも気がついた。当たり前のことなんだと思うけれど、それは実感を伴って落とし込むことができたのは個人的に大きな収穫なの。振り返ってみても上半期はそれが1つしかなくて、それが揺らいだ途端に人格が破綻した。精神がやられてた春先の口癖は「この人格を殺してほしい」だったし笑
もちろん自分でブロックを積み上げる努力は必要だけれど、帰る場所があるっていう一つの存在を忘れないように。これからの1年がどれだけ泥だらけでも、それら大切なブロックの上で輝いていたいね。

一度開くと溢れ出てきそうな大学3年生の1年間だったけれど、この夏がきっと堰き止めてくれる。
そんな夏でした。

ちょっとだけ溢れそうになったので、文字にしてしまっておくね。