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囲碁史記 第44回 元丈の時代の各家元たち


安井知得

 知得は安永五年、伊豆国三島に生まれた。父の名は中野弥七というが、この人物が知得の実父かどうかは分からない。知得の実父は漁夫であったといわれているが、網元でもない一介の漁夫に姓があるはずもなく、中野は知得が安井家に入門する際に造られた戸籍ではないかと林裕氏は述べている。明治三十七年に『坐隠談叢』を刊行した安藤如意は自身の編集による月刊雑誌『棊』(関西囲碁会発行)の紙上で『通俗囲碁歴史』を連載しているが、その中で知得について次のように記述している。
 
知得が一漁夫の子なりとは碁界の名家たる安井家の家系を軽んずる事を恐れて、今日まで記者が秘事として発表せざりし処なるも、一叩き大工の子たる村瀬秀甫が方円社長となりたるが如き、却って斯道の神聖を保つ所以なることを推せば、知得が漁家に出でたるの事実も、あながち家系軽視の素因と為すに足らざるのみならず、寧ろ名誉とするに足るもの有るを以て、茲に初めて之を記す。而して其の漁家の出なることは斯界の老将・伊藤松和の日史、其の他、各家元の口碑に依りて之を証明せらる。
 
 知得の伊豆出身説を裏付ける資料としては『本因坊家旧記』がある。文政十年十一月三日の知得よりの廻状に「豆州の実母、先月二十八日病死の報」とある。
 知得は寛政十二年(一八〇〇)に二十五歳で七世安井仙知の跡目となり、一歳上のライバル本因坊元丈より二年遅れて御城碁に初出仕した。その時の相手も元丈であった。
 
 元丈と知得は古来より「甲越」(甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信)にたとえられる好敵手であった。共に名人の実力があると言われたが、お互いを敬い共に八段準名人のままであった。
 元丈の跡を継いだ十二世本因坊丈和の著書に『収枰精思』がある。内容は元丈・知得の対戦譜三十局、丈和の打碁十六局、その他四局で、元丈・知得の譜を出すことが一つの目的であったと考えられる。丈和が名人碁所となって三年後の天保五年に出版されている。
 『坐隠談叢』に「元丈、知得に五十番碁あり」と記されているが、そのうちの三十番を名人丈和が『収枰精思』に掲げている。元丈・知得五十番碁は本因坊、安井両家が深く秘していたと『談叢』にあり、岩本薫九段がこれを発見された。
 
右対局五十番は門人といへども、猥にこれを与ふるを許さず。いま柏倉氏の執心懇請に因り、これを授く。堅く他見せしむべからざるものなり。
    文政五年壬午年四月                        安井仙知

  
 岩本九段が所蔵されていた写譜十局が追加されたためか、五十番碁は六十番碁と言われるようになった。昭和七年から九年にかけて、岩本九段は『棋道』誌上に「元丈・知得六十番碁の研究」を開講し棋譜を発表している。現在ではさらに増え八十局以上の対戦譜が発見されている。

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