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三国志の囲碁② 蜀


 三国時代の蜀は劉備、関羽、張飛の三義兄弟、それに軍師の諸葛亮が協力して築いた国である。魏の曹操に対抗する勢力で、小説や漫画、ドラマなどではどちらかというと蜀の人物たちが主人公として描かれ、魏を敵側としているものが多い。最近になり、ようやく色々な視点から描かれた作品も多くなってきた。

初代皇帝 劉備

劉備

 蜀の初代皇帝である劉備は、後漢の丞相として朝廷を実質的に支配する曹操に重用されていたが、皇帝の復権のための曹操暗殺計画に巻き込まれて都を離れると、曹操の敵対勢力として勢力を拡大していく。そして、曹操の跡を継いだ曹丕が後漢を滅ぼし魏の皇帝となると、これに反発し蜀を建国し皇帝に即位している。
 さて、蜀の囲碁についてである。
 実は蜀は魏や後に述べる呉と較べてそれほど囲碁の逸話や記述が残されていない。漢王朝から禅譲された魏や、名門の孫氏が建国した呉と比べ、新しく造られた蜀には歴史を編纂する役人がいなかったのが理由かもしれない。劉備についても囲碁を打ったとする記述は見られないが、劉備関連の逸話というか伝説は残されている。
 ある日、数人の盗賊が劉備の墓を暴きに入り込んだ。すると中で二人の人物が碁を打っていたという。その一人が振り返り「お前たち酒を飲むか」と言った。盗賊たちは酒をご馳走になり、玉で飾った帯までもらう。そして帰ろうとすると彼らの口は漆で固まり、帯は太い蛇に変わっていたというもの。
 これは劉備と直接関係ないが記しておく。

諸葛亮孔明

諸葛亮孔明

 蜀で囲碁を打ちそうな人物を考えたとき、最初に名が思い浮かぶのが軍師として活躍した諸葛亮孔明である。諸葛亮は劉備が三顧の礼で迎えたことで知られる天才軍師で、天下三分の計を劉備に説き、赤壁の戦いでも魏と呉を戦わせるなど活躍している。劉備の死後は蜀を丞相として率いている。三国志の中でもファンが多い人物の一人ではないだろうか。
 実際、諸葛亮は囲碁を打ったと言われている。しかし、魏のところで紹介した人物たちのように理論書を著したわけでもなく、高段の芸があったという評価があるわけでもない。ただ打ったというはなしだけが伝わっているのみである。
 『囲碁中国四千年の知恵』の中に諸葛亮が囲碁を打ったという話があるので紹介しよう。
 
陝西省の五丈原と言えば孔明が病没した地で知られる。その五丈原の南端に棋盤山という山があって、蜀軍の司令部が置かれていた。孔明は時間ができるとそこへ来て、碁を打ち、散策し、眺望を楽しんだ。棋盤山にはいまでも表面を平らにした石があり、かすかながら碁盤の筋目が見えるそうだ。
            『囲碁 中国四千年の知恵』(中野謙二著、創土社 二〇〇二年)引用

 
 古代中国の囲碁関係の逸話には仙人伝説などとともに、どこどこで石を使って碁を打ったなどというはなしが各地に残されている。諸葛亮のはなしも語り継がれているものの一つである。
 もう一つ、直接碁を打ったというはなしではないが、諸葛亮が作ったとされる歌がある。
 
蒼天は円蓋(車の傘)の如く
陸地は棋局に似たり
世人には黒白の分ちありて
往来して栄辱を争えり
栄うる者は自ずから安々に
辱めらるる者は定めて碌々たらん
南陽に隠者あり
高眠して臥せどもなお足かず

 
(訳)
蒼天は円い、まん円い
地上は狭い、碁盤の目のように
世間はちょうど黒い石、白い石
栄辱を争い、往来して戦う
さかえる者は、安々なり
敗るる者は碌々とあえぐ
                    『三国志』吉川英治訳(六興出版、一九九〇年)
 
 有名な三顧の礼のとき、劉備が最初に諸葛亮の自宅を訪れたときのものである。村道を歩いていると百姓が歌をうたっていた。誰の作かと尋ねると臥龍(諸葛亮)先生の作ですと答えたという。
 これは『三国志演義』に出てくるもので、歌は諸葛亮の作ではなく『演義』の著者である羅貫中の作ではないかという説もあるが、羅貫中の作だとすれば、彼から見てもやはり諸葛亮は囲碁を打っていて当然の人物であったということなのであろう。

関羽

華陀骨刮関羽箭療治図(歌川国芳)

 蜀関連で特に有名な囲碁の話として関羽が傷の治療をしながら打ったというものがある。関羽は劉備、張飛と義兄弟の契りを結び、義に厚い武将として現代でも人気がある。曹操が欲していた人物で、降伏して一時曹操の元にいたが、行方不明となっていた劉備が見つかったため劉備の元へ帰ろうとしている。この時、曹操はそれを止めることも、家臣の言うように追手を向けることもしなかったという。
 囲碁のはなしは関羽が魏の樊城を攻め、流れ矢を左臂にうけ華佗の治療を受けたときのものである。『三国志演義』のそのくだりを引用しよう。
 
関平(関羽の養子)は大いに喜び、すぐさま諸将ともども華佗を案内して関公に目通りさせた。ときに関公は臂の痛みに悩んでいたが、士気が落ちるのを気遣って色には出さず、気をまぎらわせようとして、馬良と碁を囲んでいた。医者が着たと聞いてただちに通させた。挨拶をすませ、座が与えられて、茶を飲んだあと、華佗は臂を見せてもらいたいと言った。関公が肌ぬぎになって臂を差出すと、彼は言った。
「これは鏃の傷で、鳥頭(とりかぶと)が塗ってあるため、毒が骨までしみております。早いうち治しておかねば、この腕は使えなくなりましょう」
「どうして治すのじゃ」
「療法は心得ておりますが、荒療治にござりますぞ」
関公は笑った。
「わしは死をもいとわぬ者じゃ。心配せずともよい」
「さらば、静かな部屋に柱を一本立てて鉄の輪をとりつけ、それに腕を通していただいたうえ、縄でしっかり縛り、顔を布でかくしていただきます。そのうえで、わたくしが鋭利な小刀で肉を切り裂き、骨をむき出しにして、骨についた鏃の毒を削り落とし、薬を塗ってふたたび縫合いたせばよろしいのでござりますが、いかがでござりましょうか、おやりになりますか」
「なんだ、それしきのことなら、柱なぞいりはせぬわ」
と笑って関公は、もてなしの酒を出すように命じた。酒を何杯か重ねてから、関公はまた馬良と碁を打ちはじめ、一方、腕を差し伸べて華佗に切るよう命じた。華佗は鋭い小刀を手に執ると、将校に大きな盆を臂の下に捧げて血を受けるよういいつけた。
「では始めますぞ。お驚きにならぬよう」
「ぞんぶんにやってくれい。わしは世間の俗人どものように痛がったりはせぬ」
そこで華佗は小刀で肉を切りさき、骨をむき出しにすれば、すでに青くなっている。彼がぎしぎしと音を立てて削りはじめると、居並んだ者たちは真っ蒼になって顔をかくしてしまったが、関公は酒を飲み肉を喰らって、痛さも感ぜぬがごとく談笑しながら碁をうちつづけていた。
たちまちのうち、血は盆にあふれんばかり、華佗が毒をことごとく削り、薬を塗ってから、糸で縫い合わせるや、関公はからからと笑って立ち上がり、大将たちに向って言った。
「どうじゃ、このとおり、伸ばしても少しも痛くなくなった。先生はまことに名医じゃ」
「わたくしもこれまで永らく医者をやってまいりましたが、将軍のようなお方ははじめてでござります。まことに神様でござります」
『三国志演技』引用

 関羽が腕の手術中に同じく蜀の人物である馬良と囲碁を打ちながら痛みに耐えている、いや痛みを感じていないというものである。『演義』をもとにした小説にも多く登場する話であるが、史書『三国志』では囲碁は登場しないので『演義』の創作であろうと言われている。しかし、これは三国志に出てくる囲碁の話として有名なもので、江戸時代末期の浮世絵師・歌川国芳も『通俗三国志之内 華陀骨刮関羽箭療治図』にて、その様子を浮世絵に描いているほか、その他の絵や小説の挿絵にも多く描かれている。また最近では三国志のゲームやフィギュアにも使われているので三国志ファンの方にはご存知の方も多いと思う。

関帝廟の彫刻(横浜中華街関帝廟)

 関羽は後に神格化され、関帝廟は孔子の文廟に対し武廟とも呼ばれるなど人々に広まり信仰されていく。関帝は武神としてだけでなく、算盤を発案した財神としても崇められ、華僑らにより関帝廟は全世界に広まっていった。
 神奈川県横浜市の中華街にも関帝廟があるが、その柱には、この治療の様子を描いた彫刻が施されている。

費禕

 蜀の末期に蜀を支えた人物として費禕ひいがいる。諸葛亮は自身の命が永くないと悟ったとき自分の死後は蒋琬に、その後は費禕にと遺言している。費禕は若くして諸葛亮に認められた人物であった。
 諸葛亮の死後、軍事、国政とも多く公務は煩雑を極めるが、費禕は人並み外れた理解力を持ち、抜群の事務処理能力を発揮している。
 三国志の「蜀志・費禕伝」には費禕の囲碁についての記述がある。費禕は政務や賓客の応接の合間に博弈を楽しんでいたが仕事は決して怠らなかったというもの。
 魏軍が侵攻してきた際、出陣直前に来敏らいびんが訪ねてきて、日頃の囲碁の決着をつけておこうと対局を申し出た。
 兵たちが出陣の準備を終え、慌ただしくなっていく中でも費禕は平然と囲碁を打ち続けていたといい、費禕を試すつもりで対局を申し込んだ来敏は、これ程肝が据わっているなら前線にあっても何の心配も要らないだろうと感心したという。
 事実、費禕は魏軍の攻撃を防ぎきり撃退している。
 諸葛亮も期待をかけた費禕であったが、酒宴の席で魏から降伏し蜀に仕えていた郭循に刺され、数日後に死去。そのため蜀は衰退の一途を辿ることとなった。


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