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堯・舜 囲碁創始伝説

 囲碁は古代中国に誕生した知的ゲームであり、長い歴史の間に多くの人に愛好され普及してきた。早くから日本や朝鮮半島にも渡来し、それぞれ独自の発達をとげ、現在ではこれらの国を中心に世界的に広がっている。
 そんな囲碁の起源については古くから中国の堯帝ぎょうていあるいは舜帝しゅんていによって創られたという起源伝説が有名である。堯・舜の両帝ともに紀元前二〇〇〇年よりも前の伝説の帝である。

堯(歴代君臣圖像より)

堯帝による創始伝説

 司馬遷が『史記』の編纂に際して参考にしたとされる書に『世本』というものがある。戦国時代(晋が分裂した前五世紀から秦が中国を統一する前二二一年までの期間)に編まれたもので「堯造囲棊、丹朱善之」という句が出てくる。「堯が囲碁を造り、丹朱はこれを善くす」と読む。これが囲碁の起源に触れた最も古い記録とされている。
 堯は中国神話に登場する伝説の帝で、儒家により神聖視され聖人と崇められている。天文の観測により暦法を定めたほか、黄河流域の治水事業にも尽力したとされ、『史記』によれば、「その仁は天のごとく、その知は神のごとく」などと最大級の賛辞で描かれている。丹朱は堯の子で、『史記』には「堯は退位に際して、帝位の継承者を群臣にはかったところ丹朱を挙げる声もあったが、堯は丹朱を不肖の息子として舜に帝位を譲った」と記されている。
 堯は後継者について臣下に推薦者を挙げさせたが、息子という意見は退けた。そして、みなが挙げる虞舜(舜)が、性質がよくない父と母、弟に囲まれながら、彼らが悪に陥らないよう導いているという話に興味を示し二人の娘を舜に嫁している。
 舜は母を早くに亡くして継母と連子と父親と暮らしていたが、父親達は連子に後を継がせるために隙あらば舜を殺そうと狙っていた。舜はそんな父親に対しても孝を尽くしたので、名声が高まり堯の元にもうわさが届いたのである。堯は舜の人格を見極めるために、娘の娥皇と女英の二人を舜に降嫁させたところ、舜の影響によりこの娘達も非常に篤実となった。また舜の周りには自然と人が集まり、舜が居る所は三年で都会になるほどだった。そんな中でも舜の家族達は相変わらず舜の命を狙い、舜に屋根の修理を言いつけた後に下で火をたいて舜を焼き殺そうとしたが、舜は二つの傘を鳥の羽のようにして逃れている。それでも諦めずに井戸さらいを言いつけ、その上から土を放り込んで生き埋めにしようとしたが、舜は横穴を掘って脱出した。この様な事をされていながら舜は相変わらず父に対して孝を尽くしていた。
 この事で舜を気に入った堯は舜を登用し天下を摂政させている。そうすると朝廷から悪人を追い出し百官が良く治まった。そして民と官吏を三年間治めさせたところ、功績が著しかったため舜に譲位することにした。舜は固辞したが強いて天子の政を行なわせ、堯は二十年後に完全に政治を引退し、八年経った頃に崩御した。天下の百姓は父母を失ったように悲しみ、三年間音楽を奏でなかったといわれ、三年の喪があけてから、舜は丹朱を天子に擁立しようとしたが、諸侯も民も舜のもとに来て政治を求めたので、やむなく舜が即位している。
 以上が堯舜の禅譲伝説である。
 日本の国譲り神話もそうであるが、この伝承(神話というべきか)はどうであろう。歴史というのは後世の為政者が創り出すものであるということをよく聞く。そのまま信用してよいかは不明である。これも舜が力により前の堯を斃し政権を奪ったが、人望のあった堯から譲られたとすることで国を治めてきた可能性もある。しかしこの禅譲伝説は中国では神聖視され、特に儒教では理想とされているため、先に述べたような反対意見もあるが、そんなことを言おうものならどんなことになるか。中国史としても触れてはならない部分かもしれない。それは日本の国譲り神話と同じことである。現代でこそ歴史的検証や考察といったことができるが、少し前の時代に、譲られたのではない、武力で奪ったのだ、などと言えばどんな目に遭うか考えればわかっていただけるだろう。
 

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