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囲碁史記 第45回 地方碁打ちの隆盛① 山本源吉・長坂猪之助・片山知的


 本因坊察元の登場以来、長らく低迷していた囲碁界は活性化していくが、この頃になると江戸だけでなく地方の碁打ちの水準も上がっていく。それは素人碁打ちたちのところで述べたとおりである。この時期には、地方から江戸へ修行に訪れ、また地元へと帰っていく人物も増えてきた。その中には武士も多かったという。江戸時代後半には、家元に入門している若者たちが修行のために地方行脚をすることが多くなってくるが、これは、地方でも名の知れた強豪たちが存在していたからである。また、家元当主や跡目クラスも地方に招かれ興行が行われることもあった。
 こうした地方在住の強豪を紹介していこうと思う。この中のほとんどは江戸で修行した人物たちでもある。

山本源吉

山本源吉の経歴

山本源吉ゆかりの五社神社諏訪神社(静岡県浜松市中区利町)

 明和八年(一七七一)正月、九世本因坊察元は上洛の途中、浜松五社明神社の神官森備前宅に立寄っている。備前から九歳の少年源吉が碁をよく打つことを聞き、同行の門人佐藤重次郎(初段格)と対局させたところ、源吉は五子を置いて中押勝となった。察元は源吉の碁才の優れたことを知り、江戸で学ぶことをすすめるが、両親は幼年であるからと辞退している。
 これが『坐隠談叢』にある山本源吉の幼少期の話であり、本因坊家との出会いである。実際そのときの佐藤重次郎との五子局が遺されており、源吉の棋譜で最も古いものである。
 
 山本源吉は宝暦十三年(一七六三)に浜松宿肴町に生まれた。通称源右衛門という。後年青木元悦と改め、出家して道佐と号している。源吉が江戸の察元に招かれてその門に入ったのは安永八年十七歳のときである。まもなく二段を許され、天明五年(一七八五)に三段の免許を得て帰国、のち各地で対局し、また自ら研究もした。寛政三年(一七九一)三月から尾張、美濃などを遊歴し、服部因徹や桑名の宗資などと対局した記録も残されている。寛政六年、再び江戸に出て四段へ進み「浜松の源吉」と称せられる。そのころ囲碁修業のために諸国遊歴する者で「浜松の源吉」を訪ねぬ者はなかったという。本因坊元丈の高弟である奥貫智策もその一人である。
 源吉の門人近藤玄瑞(号橘井斎淡山、磐田郡豊田村森本、医師)が、寛政九年(一七九七)の春に源吉の打碁百局を『浜の松風』という棋譜集にまとめている。その序文に山本源吉を「浜松の四天王と衆人称せり」と記している。四天王とは渡辺蒙庵(漢学)、賀茂真淵(国学者)、山本源吉、小篠大記(国学者)の四人である。
 源吉は享和元年(一八〇一)に、当時、鬼因徹といわれた服部因徹と対局している。対局は江尻宿の佐藤九平治宅、庵原村柴田権左衛門宅で行なわれ、二月十五日から三月十三日まで二十一局を源吉の先相先で打っている。『囲碁見聞誌』には「後世高段なる人々の評に源吉先相先にて勝負勝となりしは囚徹の出来宜しきなりとの沙汰あり、然らば源吉の芸は已に上手に近き業とみゆ」と記されている。その後、源吉は享和三年正月本因坊十世烈元より五段を許されている。
 源吉は文化八年(一八一一)三月、碁の配石百番を記した『方円軌範』とう棋書を著している。同十年には出家し、浜松に閑居して後進の指導にあたった。文政八年(一八二五)九月一日六十三歳で没し、天林寺に葬られる。当時の本因坊十一世元丈は、文政十年六段を追贈している。没後このように本因坊家が高段者に特別の免許状を贈ることは珍しいことで、本因坊家の源吉に対する評価をうかがうことができるであろう。

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