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囲碁史記 第53回 幻庵因碩の門人と晩年の動向


服部家

 井上幻庵因碩が井上家跡目となる前に養子となっていた服部家は井上家の外家である。因淑、雄節、正徹と三代にわたり御城碁に出仕し禄を受けているが、これは外家としては唯一であり、家元四家に次ぐ格式の碁家とされていた。

服部雄節

 養父として幻庵因碩を育てたのが服部因淑(因徹)である。井上家の外家である服部家は、井上家の番頭的立場になり御城碁へも代々出仕している。幻庵が井上家に入った後、代わりに因淑の養子となったのが服部雄節である。
 雄節は元の名を黒川立卓といい、安井知得仙知門下であった。享保二年(一八〇二)に生まれ、文政二年(一八一九)に初段、翌年に三段になっている。幻庵因碩が井上家の養子となったため、翌年の文政三年に井上因砂因碩の推薦により服部家へ養子に迎えられる。天保三年(一八三二)五段のときに初出仕、天保九年まで御城碁六局を務めている。その間に六段に昇段し後に七段となっている。
 天保十三年に四十一歳で没している。

服部正徹

 服部正徹は元の姓を加藤といい、文政二年(一八一九)に尾張の代々医者の家に生まれた。後に越後国に移る。井上幻庵因碩の内弟子となり、服部因淑、服部雄節からも教えを受け服部家の養子となる。
 天保十二年に五段、翌年、雄節の死去により服部家を相続。幻庵因碩は十二世井上因碩の後継者に正徹を予定していたとされるが、嘉永二年(一八四九)、十二世因碩の急な退隠の際に江戸不在であったため、林門下の松本錦四郎が井上家を継いでいる。
 嘉永五年には六段に進み服部一と改名しているが、安政六年(一八五九)に七段に進むと正徹へ戻し御城碁に出仕している。
 当時「酒は鬼 朝寝秀和に 拳は林 踊は太田で服っと一(はじめ)ます」という狂歌が詠まれている。安井門下の鬼塚源次、本因坊秀和の朝寝、林柏栄門入の薩摩拳、太田雄蔵の踊りと、正徹を詠み込んでいて、当時の人気ぶりをうかがい知ることができる。門下に黒田俊節と小林鉄次郎がいる。
 また、時期不詳であるが、幻庵の妾が門人と通じて、二人で裏長屋に隠れていたが、幻庵が盤石を持ってその家を訪ねてきて、門人へ棋道に励むよう伝えたという話が残されている。この門人について名前は明らかにされていないが、後に七段に進んだとされているので、正徹のことではないかと推測されている。

因碩の門人帳

 井上幻庵因碩は跡目となり井上安節と名を変えた翌文政三年(一八二〇)から門人を取り立てている。二十三歳の安節が跡目にもかかわらず当主の因砂因碩に代わってということはよほど信頼されていたということであり、因砂因碩は楽隠居のような形で安節と服部因淑に井上家を任せていたということでもある。
 安節の門人帳ともいうべき名簿が残されている。戦前、日本棋院主幹として事務局の指揮をとった八幡恭助氏旧蔵の貴重な史料である。この名簿には頭書に門人が守るべき定め書が記されていて、入門者はそれに従うことを誓約する意味でそれぞれ入門年月日と署名、花押をしている。

   
一、門弟の判衆に加へられ候上は、家の奥儀残らず授与せしめるの間、怠慢なく出精致さるべく候。塾弟ならびに家業の面々は、猶また間断なく研究あるべく候。たとへ遠国他邦に居住候とも、師家に対し疎略に致さるまじく候。勿論、他門にて師弟の誓約、碁の吟味無用たるべし。但し同門の人々は時々会合致され切磋琢磨専要の事に候。
一、囲碁の道は心術の正道を本と為す。自己の非を知ること専一なり。然るに、詐謀偽計を以て勝を取る、最も宜しからず候事。
一、囲碁の筋、行儀作法、万端相慎しみ申すべし事。
右の条々、祖先の法式、入門の師弟、堅く相守らるべきものなり。
文政三年秋七月   御碁所 井上安節方義 書判

 ここにいう御碁所とは「官賜碁所」ではなく、幕府の碁方の一員という意味である。
 因碩は文政三年七月十八日弟子を採っている。最初に署名しているのは肥州の鍋島但馬誠明。この人物は肥前佐賀藩の家老であり、文政八年に初段を許され、十三年に二段へ進んでいるが、門人帳の傍らに二段で死んだことが後記されている。囲碁史研究家の大庭信行氏は但馬について、佐賀では当時、各分野で著名な人物が一から九まで数え歌で歌われていたが、その中で「五(碁)は但馬」と歌われるほど、その実力は広く知れ渡っていたようだと述べている。
 この名簿は客筋(アマチュア)の弟子ばかり約三五〇名が記されており、赤星因徹や服部正徹などの名は見られない。
 前述の鍋島但馬に授けた初段と二段の免状が遺っている。この免状から重要なことが分かる。免状の内容自体は普通のものであるが、初段の免状には「十世井上因碩」とあり、二段の免状では「大国手井上因碩」とある。まず、十世であるが、前回、幻庵因碩により中村道碩が井上家を元祖とする世系の書き換えが行われたことを紹介したが、このときはまだ幻庵は十世を名乗っていた。それから五年後には大国手としているが、国手は中国でいう名人のことで、『孫氏』や『論語』を読んでいた幻庵には中国の知識があったのであろう。
 この時代の免状は、名人碁所が在任のときは名人碁所の名で発行されていたが、不在のときは家元会議にて承認され、その旨が記されて発行されていた。自分の門人といえど勝手に免状を発行できなかったのである。この「大国手」と家元会議による承認という言葉とは違和感があるが、当時の因碩の気負いが感じられる。このときの因碩は三十三歳、八段であった。
 世系書き換えはこの文政十三年に行われたのではないかと推測する研究者もいる。前年に先代の因砂因碩が没しており、それまでは出来なかったのではないかというのである。

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