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囲碁史記 第47回 丈和、修行から跡目へ


丈和の修行時代

 大器晩成と言われる丈和は、当初それほど注目される碁打ちではなかった。当時、本因坊家には丈和より一つ上の兄弟子奥貫智策がいた。智策は八世伯元、九世察元、十世烈元の三人の本因坊を輩出した日光街道の幸手宿(現在の埼玉県幸手市)の出身で、幼いころより本因坊門下として活躍、将来の本因坊家跡目候補と目され、当時の松之助(丈和)は影の薄い存在だったのかもしれない。
 さらに松之助は若い頃、対局で兄弟弟子と揉めて碁盤を投げつける騒動を起こし一度本因坊門を出ている。その間囲碁から離れていたのかもしれないが、後に本因坊門へ戻ることを許されている。
 丈和について『坐隠談叢』は次のように記している。
 
幼にして碁才あり。十一世元丈の門に入り、十六歳初段となり、漸く鋒鋩ほうぼうを顕わすに及び、事情止み難きことありて中止し、後幾許もなく、坊門に復帰して孜々怠らず技倆大いに進みたりしも、丈和の年齢、斯道に於てまた既に晩学老成の傾きありと評されしが、図らざりき後年名人の域に到達して、碁聖道策に亜ぐの大国手たらんとは。
 
 松之助は修行のために地方を巡り各地の強豪と対局している。文化四年(一八〇七)二十一歳の時には鶴岡を訪ね、安井門下の強豪長坂猪之助に二十一番碁を挑んでいる。以前も述べたが庄内藩士の猪之助は槍の達人として知られ、当時は国元で槍術指南をしていたが、一方で江戸藩邸で働いていた時期に安井仙知へ入門し二段を許されている。実質的に六段格と言われた強豪で、当時は四十代前半と正に脂の乗り切った時期である。四段の松之助は猪之助に対して定先で挑んだが、内心では猪之助に一泡吹かせてやろうと意気込んでいたと言われている。しかし猪之助は強く、すぐに打ち負かし先相先へ、互先へ打ち込むつもりでいた松之助は、手こずって定先の壁を突破する事ができなかった。

黒 松之助(丈和) 白 猪之助 一三五手黒中押し勝ち
(文化五年閏六月七・九日 鶴岡 二十一番碁最終局)

 このときの様子について、次のような伝説が残されている。
 なかなか猪之助を打ち込む事が出来ない松之助は、勝負を一旦打ち切り江戸へ引き上げようとする。その帰途、みすぼらしい民家があって松之助は一夜の宿を請う。その家には白髪の老人が一人で住んでいた。老人は碁盤を持ち出してきて一局打とうと誘うが碁石は白一色のみであった。松之助は、かまうもんかと打ち始めるが大苦戦、そこに老人が「たわけ、まだわからんのか」と一喝し、その瞬間、松之助が目を覚ますと道端で寝込んでいた。目を覚ました松之助は、たちまち棋理の妙を悟り、引き返して猪之助に再度挑んだというもの。
 もちろん史実では無く、似たような話は中国にもあるが、約一年間にわたって行われた猪之助との二十一番は十二局目まで松之助八勝四敗で先相先に打ち込み、残り九局は松之助五勝四敗となり、松之助が才能を開花するきっかけになったと言われている。
 文化五年の暮れ、諸国を巡っていた松之助は師匠烈元が亡くなったため、急遽江戸へ戻っている。翌年に元丈が新しい当主となるが、その跡目候補は奥貫智策であった。江戸へ戻って以降、急激に棋力を増した松之助は、丈和と名を改め頭角を現していくが、なお智策との間には力の差があった。
 ところが、将来を期待された奥貫智策は文化九年(一八一二)に二十七歳の若さで逝去。この後に力をつけてきた丈和が跡目と目されるようになっていく。丈和が正式に跡目に立てられたのは文政二年六月、三十三歳六段の時で、智策が亡くなってから七年の歳月を要した。

奥貫智策

 ここで元丈の跡目候補であった奥貫智策についてもう少し詳しく説明する。
 天明六年(一七八六)の生まれで武州幸手の出とされるが、詳しい経歴は残されていない。幼名を瀬六といい、幼時に本因坊元丈に入門、将来を嘱望され『坐隠談叢』には跡目と記載されているが、跡目届けの記録は無いため実質上の内定状態であったと思われる。丈和は智策の一つ下の弟弟子であり、生前は智策に及ばなかったという。

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