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囲碁史記 第75回 方円社の分裂


井上因碩を除いた発会

 明治十二年四月二十日、村瀬秀甫、中川亀三郎らが中心となり神田花田町の相生亭にて囲碁研究会「方円社」が発会する。
 本因坊継承問題をめぐり、秀甫や亀三郎と色々あった林秀栄や土屋百三郎も参加しているが、会の賛同者に井上馨、山縣有朋、後藤象二郎、岩崎彌太郎、渋沢栄一ら政財界人の大物百九名が名を連ね、秀栄らにしても無視できなかったのかもしれない。
 家元の出席について「坐隠談叢」では次のように記述されている。

 方円社長、村瀬秀甫は一代の奇才なり、身、方円社長として師家に対し、やましき点があるより、人望離散を怖れしものか、遂に本因坊、林、安井の三家に向ひ、斯道研究の名の下に合同を申込めり。秀元、即ち秀栄と議せし結果、時勢に鑑み、不本意乍らも井上家の門人小林、酒井の両人を放逐する約定にて、合同を諾し、安井算英と共に方円社に出席せり。抑も秀元の井上門下に含む所以のものは、往年因碩(松本錦四郎)が他の昇級に故障せるに起因するものなり。

 この記述内容について囲碁史研究家の林裕氏は、まず秀甫はこの時点では社長ではないことを指摘し、秀栄らが因碩が昇段に異を唱えた因縁を理由に、参加の条件として、門下の小林鉄次郎、酒井安次郎を放逐する約束をしていたという話にも疑問を投げかけている。小林鉄次郎は井門ながら別格として秀悦、秀栄らと親しくしていて、「六人会」「三の日会」へも出席しているし、自宅の新築祝に開かれた碁会に顔を出している。酒井安次郎は明治五年に「囲棋人名録」が井上門下を除外して刊行された際も、高橋泰之助(泰策)と共に坊門初段として掲載されている。両者とも坊・井門の両免状であった。
 いずれにしても、当時、井上因碩は家元の中で孤立した状態であり、秀甫らは他の家元が参加するために発会にあたって因碩への参加要請は行わなかった。ただ、一説には方円社側は事前に因碩と話をして、折を見て会へ参加する約束があったという意見もある。

本因坊秀元誕生

襲名

 発会間もない方円社には、もうひとつ懸案事項があった。土屋百三郎の取り扱いである。
 方円社が発行する「囲棋新報」には例言(規約)とともに社員の名前が記載されているが、発会時の名簿では百三郎は三段と段位が低く、序列は十人の中で一番下であった。
 ところが、八月に入ると百三郎は本因坊家を継承し本因坊秀元を名乗っている。それまでは本因坊となることは分かっていても、あくまで内定状態であり、立場的には兄秀悦の代理であった。方円社側も襲名はまだ先と考えていたと思われ、三段でありながら家元当主という立場となったことで混乱が生じている。

本因坊秀元襲名を伝える郵便報知新聞の記事(明治12年8月14日)

序列変更の混乱

 「囲棋新報」の社員名簿にも、その時の混乱ぶりがうかがわれ、末席だった秀元が一躍筆頭となったため、それにともない序列は家元優先に改まっている。
 もともと方円社は各家元を一つの派閥ととらえ、方円社がそれらを統一して差別なく平等な運営を目指すといっていた。しかし、実態は段位によって座る位置が決められ、新たな差別(区別?)が生じていたという。
 なお、席次が改められた例会では秀栄は亀三郎より上座へ坐ったが、さすがに七段の秀甫へは上座を譲ったと記録されている。 

【明治十二年八月の社員名簿】
 村瀬秀甫  七段
 中川亀三郎 六段
 安井算英  五段
 林秀栄   五段
 高橋周徳  五段
 水谷四谷  五段
 吉田半十郎 五段
 小林鉄次郎 五段
 酒井安二郎 四段
(百三郎改)本因坊秀元 三段

【明治十二年九月の社員名簿】
 本因坊秀元 三段
 安井算英  五段
 林秀栄   五段
 村瀬秀甫  七段
 中川亀三郎 六段
 高橋周徳  五段
 水谷四谷  五段
 吉田半十郎 五段
 小林鉄次郎 五段
 酒井安二郎 四段

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