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囲碁史記 第50回 林元美と事件

 十一世林元美は安永七年(一七七八)に水戸藩士の子として生まれる。本名は舟橋源治。九歳で近くの寺の僧より碁を学び、父が江戸勤番となった十一歳の時に本因坊烈元に碁を見てもらい「碁園の鳳雛」と認められ入門する。翌天明九年(一七八九)に父と共に帰郷するが、師から呼ばれて再入門すると、同年に十二歳で入段し水戸小僧と呼ばれた。
 元美は眉目秀麗で好男子だったという。享和二年(一八〇二)、二十五歳で五段に昇り、その年に師の許しを得て路銀を二十両給せられ京洛の地に遊んだ。滞在中にある漢学塾に立ち寄ったところ、その家に季野子という名の非常に美しい娘がいて、元美は仲介人を立てて正式に娶り江戸へ帰っている。無断で妻帯したことに師の元丈は大いに怒ったと『坐隠談叢』にある。師の元丈とあるが、烈元の誤りと考えられる。このとき烈元は五十三歳、元丈は二十八歳で跡目であった。路銀をあたえたのは烈元であろうし、兄弟子の元丈が師の気持ちを察して怒ったとも考えられるが、これは烈元のことと思われる。
  文政二年(一八一九)に十世林鐵元門入が死去し、本因坊跡目である元丈の計らいにより林家を継ぎ林元美となる。林家では代々当主が門入の号を継承してきたが元美は名乗らなかった。

 元美は名人を出さなかった林家において最高の準名人まで昇っている。また、文才に優れた元美は多くの著書を著している。打碁集『古今名人碁経連珠』(一八〇八年)、詰碁集『碁経衆妙』(一八一二年)、定石手筋集『碁経精妙』(一八三五年)、随筆集『爛柯堂棋話』(一八四九年)などである。
 『坐隠談叢』の中で「文化文政の暗闘」、「天保の内訌」と称された一連の家元間の騒動の鍵を握っていた人物でもあり、一八三一年の本因坊丈和の名人就任の際には、自身の八段準名人推挙を交換条件として、水戸藩隠居の「翠翁公」を通じて、水戸藩出身の寺社奉行土屋相模守彦直に働きかけている。しかし、名人となった丈和は交換条件であった準名人への推挙を反故にしたため、元美が丈和との勝負碁を願い出るに至り、最終的には一八三九年に丈和は退隠に追い込まれている。

元美の恐喝事件

 元美が関与した恐喝事件(判決は一八三〇年)が起きている。『御仕置例類集・天保類集』に掲載されている「天保元寅年御渡/土屋相模守伺/一、碁之者林元美儀、牛込等覚寺門前家持久右衛門取計方之儀申立候一件」という事件で、「碁之者林元美」、「水野伯耆守家来/叶彦太郎父/畠中宰平」、「牛込等覚寺門前/家主/源蔵/外三人」、「牛込等覚寺門前/家持/久右衛門女房/しの/外壱人」への判例がそれぞれ記されている。
 遊戯史研究家増川宏一氏によると、「右の者(畠中宰平)は、林元美に頼まれて、牛込等覚寺門前家持久右衛門方へ罷り越し、同人より元美が借りた金子の返済期限を延ばすように掛合に行った。その時畠中は既に大酒をしていて酒狂のうえ権高であったため久右衛門と口論になった。畠中は久右衛門が雑言におよんだと喚いて刀を抜いたので、久右衛門や家内の者達に脇差までも奪い取られ、あまつさえ細引で縛られ、刀も脇差も役に立たないように折り曲げられてしまった。畠中の所業は帯刀人にもあるまじきおこないで、そのうえ奉行所が吟味をした時に、右の事柄をおし隠し、掛合の方法に偽りを述べた。久右衛門は憤って、畠中が申し立てているような自分達が理不尽に引倒して大小をもぎとった等は事実と違っていることを申し述べた。ことに、吟味中に畠中は元美と相談して、元美の借りた金を貪り取るつもりで、久右衛門に難儀を掛け、訴え出られた遺恨をはらそうと、折れ曲がった刀と脇差は先祖重代の品であるから損傷の代金として金子二百両を差出せと要求した。このほか畠中は不法の事も掛合におよんだ始末は不届であるので、刀脇差を取上げて江戸払(とする)。」と事件の概要を記している。
 増川氏は、「久右衛門から借りた金は詐欺や恐喝によるのではなく、返済できない時は家蔵を売渡す旨を記した証文があるので、これは通常の賃貸関係とみなされる。しかも久右衛門が心憎く思うのは、元美が貧窮で返済に困っているのではなく、また、他所で都合すれば容易に返済できるにもかかわらず、五か年の間に一銭も返済していないことである。そのうえ、畠中が延期を懸合に訪れた時に久右衛門の不法があったので、借りた金は返済せずともよい、といっていることである。元美は碁の者として御扶持も下されている身分にもあるまじきおこないで、久右衛門の催促は当然のことである。依って元美は百日の押込(とする)。」と元美の処罰内容について記している。
 増川氏はこの恐喝事件の判決を受けて、「元美がどういういきさつで金を借りたのか、また、どの程度の金額であったのか記されていないが、家屋土蔵を抵当に入れるくらいだから少額ではなかっただろう。五年間元利とも支払わず、畠中のような者に依頼したところをみると、自ずから元美の性格も浮かび上がってくる。この頃、林家は家元四家のなかでは家格が高いにもかかわらず、門人数は激減し、碁の宗家としては弱小集団になりつつあった。このために元美が荒れた状態になっていたのか、人格を疑われるような所業だったので門人も離れていったのであろう。」と論評を加えている。
 これに対し松平家の碁会の周辺事情を研究している大庭信行氏は、「増川氏の大局的な指摘は肯定できる部分も含んではいるが、従来の囲碁史の中で一般的に描かれてきた元美像や当時の家元四家の駆け引きに対する理解が十分でないように思われる。この恐喝事件を家元四家の争いの中に位置づけてみる必要があり、そのことによって増川氏が初めて指摘したこの恐喝事件が、従来の囲碁史に再考を促すような重要な要素を秘めていることを真に認識することができるように思われる」と述べている。
 
 増川氏がこの恐喝事件を初めて指摘したと記したが、実はそれ以前にも囲碁史研究の中に事件の存在を示唆するような記述はあった。荒木直躬氏が紹介した「林元美手稿集」の中の一八三一年一月、本因坊丈和を推薦したとされる建白書の草稿である。丈和への名人碁所任命は一八三一年三月十六日なので、その直前である。これによると「私儀は文政十一子年春、堀大和守殿御勤中、勝負碁願い奉り候節より証人に御座候故別して黙止し難く、事実も分り兼ね候間申し上げ候。昨年仙知え取扱仰付けられ候砌は、私儀御訴訟御吟味中打続き押籠仰付けられて罷り在り候故、残念乍ら申上げず候。」と書かれている。
 荒木氏はこの元美の草稿中にある訴訟吟味および押籠について何も触れていないが、渡辺英夫氏は『星輝庵棋録』で引用現代語訳した中で「私儀御訴訟御吟味中打続き押籠仰付けられて(事情不明)ゐた」と括弧書きで事情不明と記している。元美の記述から何らかの事件に関わっていたことが疑われるが、(恐喝事件の存在を知らなかったので止むを得ないが)事情が分からず不思議に思っていたようである。残念ながら、その後もこの件に関して掘り下げられた形跡は無い。
 時期についても先の判決が言い渡されたのが一八三〇年、元美草稿に書かれた会合があったのも同年で一致している。仙知に取り扱いが命じられた碁界の会合へ元美が恐喝事件の訴訟吟味および押籠の影響で参加できなかったとすれば、話はうまくつながることになる。見方を変えれば押籠から解放され、最初に行ったのがこの丈和の名人推薦だったといえるかもしれない。
 もう一度整理すると、荒木氏紹介の元美草稿の内容から、元美が訴訟吟味およびその後の押籠処分により会合に参加できなかったことを渡辺氏は把握していたものの、具体的に何があったのかは分からなかった。増川氏紹介の判例はその渡辺氏の疑問に対する解答になるもので、本来は相当重要な指摘のはずであったが、不幸なことにこれまでそのことに気がつかない状況が続いてきたのである。
 またこの観点から、元美の御城碁での対局について見てみると、一八二七年までは比較的対局頻度が多かったが、その後一八三四年まで七年間のブランクが生じている。恐喝事件を重ね合わせると、この七年間のブランクには事件の影響があったと考察することが出来る。
 
 さらに注目すべき点は、この判決を下しているのが寺社奉行の土屋相模守(土屋彦直)である点である。『坐隠談叢』を踏襲した通説では、丈和が争碁を行うことなく名人碁所に就任できたのは、元水戸藩士の林元美の依頼により水戸藩隠居の「翠翁公」が水戸藩出身である土屋相模守へ働きかけたためといわれているが、元美を処罰したのも土屋相模守という結果を踏まえると(彦直の情状酌量により百日の押籠で済んだという見方もできなくはないが)、通説についても再検討が必要となるように思われる。

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