見出し画像

囲碁史記 第54回 地方碁打ちの隆盛② 関西の碁打ちと囲碁指南所


外山算節

 外山算節は、文政年間頃に活躍した京都の人で、幼名を喜太郎。
 若い頃に江戸で修行し、本因坊元丈には先相先の手合、五段に進み、京都に戻る。文政五年(一八二二)、京都寂光寺にて算砂法印200回忌追善法会が行われ、算節は元丈跡目で弟弟子でもある本因坊丈和と対局したことで知られている。記念碁ではあるが、この碁は四日にわたって打継がれ、算節は一一九手目を打とうとしたところで倒れている。立会人の服部因淑(因徹)が助け起こしてようやく一手を打ったが、それ以上は進められずに打ち掛けとなった。この時算節は「予に敗兆ありとせば断固死を決して打ち継ぐべし」と述べたが、因淑は「勝敗未だ判じ難き」と答え、打ち掛けとしたという。後に人に問われて、算節は黒の三目勝ちと答え、丈和は一目(どちらとは言わず)と答えている。
 京都で多くの弟子を育て、後に円山正阿彌という料理屋を買い取り隠居した。丈和は「(山本)源吉、因砂、元美、算節等の技は、伯仲の間にあるも、気味合に至りては算節を長とすべし」と評している。

京都の碁打ち

 算節には河北耕之助という弟子がいた。諱は房種。文政五年に丈和より五段に進められる。文政十二年に算節の追善碁会を行っている。著書に「置碁必勝」(算節遺稿)がある。耕之助は囲碁のみならず、家伝の兵書を諳んじ、弓術の秘書を雲州の松江藩に献じ、同藩の客士に列せられる。書は松花堂を習得し、書道の世界でも評価されている。
 生没年ははっきりしないが嘉永三年の囲碁番付に名前があり、嘉永四年には見られないことから、この辺りに没したのではないかと考えられる。
 算節が経営していた料亭円山正阿彌は双林寺の塔頭の一つとも言われ、多くの対局の会場となっている。囲碁指南所としても記録にあり、今でいう碁会所の機能を果たしていたものであろうか。
 他にも福井半次郎という井上門下の人物も正阿彌での対局記録がある。

京都・大阪の囲碁指南所

江戸時代の囲碁指南所

ここから先は

2,237字 / 1画像
この記事のみ ¥ 200

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?