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囲碁史記 第71回 悲劇の当主十五世本因坊秀悦


秀悦の生涯

 十五世本因坊秀悦は、十四世秀和の長子で、三弟一妹がいた。秀栄、秀元は秀悦の後に本因坊家当主となっているが、四番目の伝吉と妹の琴子は碁を嗜まなかったという。
 秀栄が養子に入った家元林家は秀栄が本因坊家へ戻ってからは囲碁とは無縁となったが、秀悦は他の兄弟と母親が違うらしいという話が伝わっていたそうだ。そもそも本因坊家当主は僧籍に入るため建前上は妻帯することが許されず、家族について詳しく公表されることはなかった。ただ、研究者の間では秀悦と弟たちとは性格も生活環境も異なるため、十分納得できる話だと受け止められている。
 文久三年(一八六三)、十三歳、三段で父秀和の再跡目になった。前年に跡目の本因坊秀策がコレラにより急逝したためである。当初、秀和は塾頭を務め、秀策と共に「坊門の圭玉」と称される村瀬秀甫を跡目に考えていたが、秀甫を嫌っていた先々代丈和の未亡人、勢子の反対で断念したといわれている。ただ、これについては、いくら秀和が丈和に恩義を感じているとはいえ、その未亡人が反対したからといって跡目を変更するだろうかという意見もあり、秀和自身にも実子に跡を継がせたいという思いがどこかあったのだろうという研究者もいる。
なお、秀和が寺社奉行へ出した跡目願いに添えられた親類書は次のとおりである。

 親類書
一、父 町奉行支配下、本所相生町二丁目 葛野忠左衛門
一、母                 フジ
             本国伊豆
             生国武蔵 葛野秀悦

 葛野忠左衛門は丈和の長男、井上節山因碩が名乗った名だが、親類書に書かれた忠左衛門は、節山の弟の二世葛野忠左衛門(葛野松次郎)のことである。
 秀悦は秀和の息子であるが本因坊家当主は建前では僧籍のため妻帯が禁じられている。そのため忠左衛門を父として届けたのだろう。松次郎も丈和の息子であるが、幕府の記録として残る文書に名前が上がらなければ問題ないという事かもしれない。

二世葛野忠左衛門(葛野松次郎)と勢子の墓(本妙寺)

 松次郎の墓は本妙寺の本因坊家墓所にあり、母の勢子と合葬となっている。
 こうして父の跡目となった秀悦だが、時は幕末の動乱期であり、御城碁に出仕する機会を持たぬまま明治維新を迎えている。
 明治二年(一八六九)、秀悦が六段の頃、本因坊家は幕府崩壊による経済的な理由から本所相生町の屋敷の一部を借家として貸し出しているが、その借家が火元となり屋敷は全焼し、家族は類焼を免れた土蔵での雨露をしのぐ生活を強いられる事となる。さらに明治四年(一八七一)には家禄奉還となり、益々生活が困窮していく中、明治六年(一八七三)七月に秀和が亡くなり、二十四歳、六段の秀悦が十五世本因坊となっている。
 当時、世の中はかなり落ち着いてきたというものの、家禄を失い火災にも遇った本因坊家はまだまだ打撃から立ち直ることが出来なかった。中川亀三郎が、かつて秀和が中心となって開催した「三の日会」を復活させ人が集まっていくのに対し、本因坊家を訪れる人は減っていき、加えて母の病気などもあり、重責を担う秀悦は夜も寝つけず次第に精神を蝕まれていった。
 そして、明治十二年に騒動を起こした秀悦は、回復の目途がたたず、弟百三郎 (秀元)に家督を譲って隠居することとなる。

隠退騒動

事件の概要

 秀悦が隠退する原因となった騒動は次のような出来事であった。
 当時、大審院判事で、後に大審院長、枢密顧問官などを歴任する官僚の尾崎忠治は、官僚の中で最強といわれた囲碁の強豪でもあった。
 余談だが尾崎は元土佐藩士で武市半平太が率い、坂本龍馬もいた土佐勤王党に所属していた。
 この頃、尾崎は囲碁の指導を受けるため邸宅へ棋士を招き、尾崎邸は囲碁サロンと化していた。

 その中のひとりで事件に居合わせた林佐野から直接聞いたであろう養女の喜多文子が、「女流棋家の今昔」の中で次のように紹介している。

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