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囲碁史記 第46回 本因坊丈和出自考


丈和の出生地

 十二世本因坊丈和は天明七年(一七八七)に生まれ、弘化四年(一八四七)に六十一歳で没している。「強力無双」と呼ばれる激しい力碁を特徴とする江戸時代後期の中でも傑出した碁打ちであり、名人にまでなった人物であるが、近年までその生国ははっきりせず謎に包まれていた。文化二年の『囲碁人名録』には江戸生まれと記述されているが、公儀に提出した親類書では武州本庄の戸谷姓となっており、息子の中川亀三郎でさえ生国は不明だが幼時に武州熊谷あたりで成長したらしいと述べている。これは丈和自身が生国について周囲に語りたがらなかったためである。なお、棋譜などにより丈和は「葛野」と「戸谷」の二つの姓を使っていた事が分っている。これらの事情により、明治半ばまで多くの人が丈和は江戸出身と考えていた。
 丈和が亡くなった頃に井上門下の矢畑半助という人物が著した『本因坊伝書』には、「葛野丈和、江戸通塩町産」と記されている。現在これは間違いと考えられているが、通塩町(現在の日本橋横山町、日本橋馬喰町一丁目あたり)といえば、伊豆出身の十四世本因坊秀和が先代丈策の跡目になった際に幕府へ提出した親類書の中にも「父通塩町伊豆屋作兵衛」と記載されている。秀和の父は別人であるが、通塩町に作兵衛という本因坊家と関わり深い人物が居たのは確かなようだ。
 一方で、丈和の愛弟子であった白木助右衛門は、『棋家系譜』に、丈和は日本橋室町一丁目、嶋屋半兵衛の倅と記載している。嶋屋は中山道武州本庄宿で「中屋」を営む豪商戸谷半兵衛が江戸に出していた支店であり、嶋屋半兵衛と戸谷半兵衛は同一人物である。
 江戸説、武州説が唱えられたのは先に述べた事情によるが、昭和五十九年に大澤永弘氏が自著『本因坊丈和出自考』において伊豆木負村(現在の静岡県沼津市西浦木負)出身説を提唱され、現在ではこの説が最も有力とされている。平成二十九年には地元関係者により「本因坊丈和出生の地」の記念碑が沼津市西浦木負の地に建立された。
 まずは埼玉県本庄市の戸谷家について述べていく。

武州本庄説

本庄宿の戸谷家

 文政二年(一八一九)五月に十一世本因坊元丈の跡目としての許可願いが出された際に、幕府の寺社奉行へ提出された新類書には次のように記述されている。
 
  親類書
一、父 吉川栄左右衛門御代及所武州児玉郡本庄宿年寄
         戸谷半蔵
一、母 右同宿 戸谷半兵衛 死 娘
一、叔父 右同宿年寄 戸谷半兵衛
一、叔父 右同宿百姓 黒田孫兵衛
 右之外忌掛りの親無御座候。
 文政二卯年五月[本国生国共武蔵]戸谷丈和[卯二五歳]印
寺社御奉行所

 
 これは『本因坊家旧記』にある親類書で、明治時代に編まれた囲碁史書『坐隠談叢』で安藤如意が紹介したことで広く知られる。同時に安藤が「果たして真正のものと為す可らず」と断定したため、以後、これは偽造されたものという考え方が主流となった。しかし、この親類書を否定する証拠も見られず、戸谷丈和と記された棋譜等も見られることから、丈和が一時期、戸谷姓を名乗っていたのではないかとも言われてきた。
 ところでこの本庄宿の戸谷家とは一体どういう家なのだろうか。『談叢』が著された明治の頃には中央の囲碁界で認識されていなかったようだが、戸谷家は江戸時代の豪商として広く知られた存在であった。昭和三十九年に本庄市教育委員会が市の歴史を調査しまとめた『本庄市史』にも戸谷家に関する資料が多数掲載されている。
 江戸時代、中山道最大の宿場町であった本庄宿は新田義貞の家臣団が移り住み発展を遂げてきたといわれ、その中の一つ戸谷八郎左衛門家は古くから名主役を世襲してきた。寛永年間(一六二四~四四)に宿駅の体制が整えられるが、その頃に八郎左衛門家とは別に戸谷伝右衛門家が勃興し、十八世紀前半、五代目のときには次男半兵衛光盛が分家し、太物小間物類を商う「中屋」を興している。これがその後の本庄戸谷家の中でもっとも栄えた戸谷半兵衛家である。
 中屋の本店は本庄宿にあったが、江戸室町には支店の「島屋」を持ち、さらに京都にも支店を出して、幅広い人脈を活かして太物、小間物、荒物などを商っていた。
 初代光盛は商売だけではなく、明和八年(一七七一)に久保橋、安永二年(一七七三)には馬喰橋を自費で石橋に掛け替え、天明元年(一七八一)には神流川に土橋を掛け、馬船を置いて無賃渡しとするなど公共事業にも尽力している。さらに天明三年の飢饉の際には麦百俵を、また、浅間山噴火による諸物価高騰の際には貧窮者救済金を拠出する等、晩年には慈善事業も行い、幕府から苗字帯刀を許されていた。江戸時代中期から後期にかけての旗本の根岸鎮衛が執筆した雑話集「耳嚢みみぶくろ」に登場するなど、その名を轟かせていた。
 光盛は明和九年、七十歳のときに息子の半兵衛脩徳へ家督を相続して隠居している。ところが二代目はわずか三年後に三十歳で急逝し、そのときわずか二歳だった嫡子光寿が跡式名目を相続し、隠居光盛が後見人として取り仕切っている。
 さらに光盛は安永六年(一七七七)に二代目の未亡人常女を甥の横山三右衛門勝正という人物と再婚させ、その勝正を戸谷家の入婿とする。また天明六年(一七八六)には上州鬼石町の服部家の次男半蔵を戸谷家へ二代目の猶子として迎い入れ、二代目と常女の間に生まれた喜代女と結婚させる。服部半蔵すなわち戸谷半蔵光隆はこのとき二十三歳、妻の喜代女は十五歳であった。
 この翌年、初代半兵衛光盛は八十五歳で大往生を遂げる。三代目半兵衛光寿が十四歳のときである。その後、戸谷半兵衛家はしばらく常女一家が中心となり、入婿の三右衛門正勝や半蔵喜代夫妻が助ける形で本庄の中屋や江戸の出店などが維持されていく。
 当主半兵衛光寿が二十二歳となった寛政七年(一七九五)になると、家の見通しが立つようになったためか、あるいは光寿が嫁を迎えることになったためなのか、常女は半蔵夫妻を分家させている。これが親類書で丈和の出身とされた戸谷半蔵家の興りである。戸谷半蔵家は宿内では下屋敷などと呼ばれ大地主として本家の半兵衛家と共に繁栄したと伝えられている。初代半蔵光隆は分家して三年後の寛政十年に喜代女に先立たれ、その後、寛政十二年に本家の常女と三右衛門の娘、すなわち義妹にあたる安女と再婚、その後も本家と密接な関係を保ちながら本庄宿の年寄役などを勤め、弘化二年(一八四五)に八十二歳で没した。

戸谷半兵衛光寿(本庄市立歴史民俗資料館)

 戸谷家中興の祖と呼ばれている三代目半兵衛光寿は、初代半兵衛光盛と同様、家業を大きく発展させると共に多くの慈善事業も行っている。文化三年(一八〇六)には江戸において出店の名で千両を幕府へ上納し、文化十三年には足尾銅山および足尾町の窮状を救済するために千両を上納し、一代の帯刀を許されると共に、足尾銅山吹所世話役にも任命されている。
 この光寿のときに本庄宿も近世商業都市として最盛期を迎えその発展とともに中屋戸谷家も全盛期を迎えていく。本庄と江戸にそれぞれ大店をもつ呉服業界の豪商であり、双方で多くの小作、家作を支配する大地主でもあった中屋戸谷家は、本庄宿の名主格として特別扱いを受け、商売上、幕閣の家にも出入りしていたことから大名貸しも行っていた。
 光寿は事業の一方で十代半ばより俳句を学び、高桑蘭更や常世田長翠に師事して紅蓼庵双烏と号するなど、江戸後期の一流文化人としても名を知られている。俳壇のパトロンとしても名高く、双烏に招かれた師匠の常世田長翠は本庄宿に八年間滞在し、本庄宿は当時の中央俳壇の中心地となっていく。双烏(光寿)の門下生は、関東地方だけで数千人いたと言われ、その影響力は絶大であり、小林一茶も門人ではないが句集を配布するにあたり光寿の支援を受けていたという。現在でも半兵衛光寿と俳諧についての研究が行われている。
 なお、戸谷家と本庄市については本庄市歴史民俗資料館に資料が展示されている。

 さて、ここまで戸谷家について述べてきたが、丈和との関係について見ていこう。

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