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囲碁史記 第2回 本因坊の原点寂光寺


寂光寺初代 久遠院日淵

寂光寺(京都市左京区)

 ここで本因坊の原点ともいうべき寂光寺について述べていこう。寂光寺はこれまでも出てきたように本因坊算砂が二世住職を勤めた寺であり、歴代本因坊(世襲制)が眠る囲碁の聖地とされる地である。
 寂光寺は京都十六本山のひとつで日蓮大聖人滅後二九六年後の天正六年(一五七八)に久遠院日淵上人により京都近衛町に創建された。
 天正十八年には豊臣秀吉により聚楽第建設のため、寺町通竹屋町(現在の久遠院前町)に移り、境内に久成坊・実教院・実成坊・詮量院・本成坊・玄立坊・本因坊の七塔頭を建て布教活動を行っていた。
 宝永五年(一七〇八)に江戸の三大大火のひとつ「宝永の大火」により寂光寺は焼失し、これにより現在の東山仁王門西入へ移転した。
 
 算砂は初代本因坊ということで碁打ちとしての印象が強いが、本来算砂は僧侶である。僧侶としての本因坊算砂について見ていこう。
 まず本因坊という名称から考えていこう。
 本因坊は京都寂光寺(法華宗)の塔頭の一つで、算砂こと日海上人が本因坊に住んでいたことから日海を本因坊と呼ぶようになったとされている。算砂は寂光寺二代住職で権大僧都叙位者である。
 ここで寂光寺初代住職である日淵についてと算砂との関係について述べよう。
 日淵は算砂の叔父であることはすでに述べた。年齢差はちょうど三十である。日淵ははじめ日雄と名乗っており、一般的に知られる日淵は後年の名乗りである。日淵は享禄二年(一五二九)二月、京都室町五条坊門に加納家の第九子として生まれる。加納家は舞楽一流の宗家で日淵の父はその世界の第一人者であった。『本山寂光寺誌』によると、天文三年、六歳のときに妙満寺本行院日詮に投ずとある。天文五年、八歳で得度している。この年は比叡山僧徒による法華宗寺院の焼き討ちがあり、これにより京都二十一ヶ寺が京より追放された。天文法華の乱である。京を逃れた日雄は十七歳から二十四歳まで近江の三重寺で学び二十四歳から三十六歳まで越前平等慧寺の学舎に入り、詩書・礼典・易・暦・医を学ぶ。その後、三年のあいだ北越を巡教する。この巡教中に日海は八歳になるが、日海は八歳で日淵(このときはまだ日雄だが)の門に入ると記録が残されている。
 日雄は永禄十一年(一五六八)からの五年、京都北野天満宮の経蔵に籠る。四十歳から四十四歳のときである。程なく妙満寺に戻ったものと思われ、天正五年(一五七七)、四十九歳のときに妙満寺二十六世貫主に就く。そして翌年、天正六年十一月八日、室町通近衛町に空中山寂光寺を創建している。この寂光寺の創建であるが、妙満寺の貫主に就いてからわずか一年後という早い時期に行われている。翌天正七年に安土宗論が起こる。安土宗論については織田信長の伝承の回で詳しく述べるが、安土城下で起こった浄土宗と日蓮宗の紛争を仲裁した信長が双方の代表に問答対決をさせた結果、日蓮宗側が負けと裁定された騒動である。日蓮宗側の代表のひとりとして参加した日淵は詫び状の提出を強要されるという恥辱を味わっているが、このときの署名に「久遠院日雄」とあるから、当時はまだ日雄と名乗っていたことがわかる。慶長三年(一五九八)に妙満寺貫主を辞し寂光寺に退蔵(隠退)する。七十一歳のときである。この後は弟子の教育に専念しているが、日雄から日淵に改めたのもこのときではないかといわれている。慶長十四年に八十一歳で没する。この時代では大往生である。
 以上が日淵の生涯のあらましだが、この伝は寂光寺三世日栄の「淵師十七回忌諷誦文」に依拠している。
 日海(算砂)が寂光寺二世貫主となったのは慶長年間であり、権大僧都に叙任され、御所において碁技を天覧に供したのが慶長八年である。
 『寂光寺誌』の記述をもとに日淵、日海の事績を見ると、日淵については多く記されているが、日海の僧としての事績は乏しい。日淵がしてきたように自ら進んで教学の修行はしていない。算砂が僧としての訓育を受けた記録が残るのは慶長三年、日雄(日淵)が妙満寺貫主を退隠して寂光寺に移ってからである。住職となっていた期間は十年余ほどしかない。
 「本因坊」という名についても触れよう。本因坊はご存知のように現在では囲碁のタイトルの一つにもなっており、歴史も古い。歴代本因坊を見ても一世本因坊算砂から二十一世まで続いている。しかし算砂は囲碁家元の一世本因坊であるが、「本因坊」という名乗りは算砂以前に師の日淵が名乗っていたと『寂光寺誌』にある。「淵師もと本因坊日雄と名乗り」と記されている。また、日淵著述の『文句鼻端』の奥書に「本因坊日雄後改め久遠院日淵坊号譲日海」あり「妙満寺日雄、撰後改日淵」となっている。寂光寺蔵の算砂肖像画にも「当山二世本因坊本行院権大僧都法印日海」とある。算砂は碁打ちとしての一世本因坊であるが、僧として二世本因坊ということになる。
 『文句鼻端』であるが、永禄九年(一五六六)に書き終えたとあり、そこに「本因坊日雄撰」とあることからこの頃すでに本因坊を名乗っていたものと考えられる。このとき日雄三十八歳、日海八歳であるが、奥書の通り「坊号譲」だと日海の年齢が低すぎる。このことについて囲碁史研究家の猪股清吉氏は奥書は後で書き足されたものであろうと述べられている。日雄は院号を「久遠院」、坊号を「本因坊」としており、公私の兼ね合いで使い分けていると思われる。
 日淵の事績のところでも触れたが、日海の得度が八歳のときで、そのとき日淵は北越巡教中と重なる。その後も越前平等慧寺に修学、北野天満宮の経蔵に籠ると続き、はたして日淵に日海を得度させる時間はあったのだろうか。記録が正しいとすれば日淵にその時間はなく、日海の得度の師は別にいたということになる。或いは北越巡教中に一度京都に帰りその合間に叔父として日海を妙満寺一子院に託したのであろうか。
 

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