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囲碁史記 第42回 外家の登場


 九世本因坊察元の後の時代、十世本因坊烈元の頃から囲碁界では家元に連なる外家という存在が見られるようになってきた。そして、家元の当主や跡目が中心であった御城碁にそれ以外の高段者が出仕するようになる。この時代より以前には四世本因坊道策の頃にも星合八碩がいた。それらの人物を見ていきたいと思う。

河野元虎

黒 河野元虎 白 安井仙知 二〇五手黒中押勝ち
(天明六年十一月十七日 御城碁)

 宝暦十一年(一七六一)に大阪の荒物商の家に生れ、幼時から碁を打ち、八歳の時に京都の神沢杜口と四子で打って互角であったとして、小島道芝によって江戸へ上り、本因坊家に入る。天明三年(一七八三)に五段となって元虎を名乗り、外家ながら御城碁初出仕。これは察元の推挙によるものと思われ、三歳年少で既に安井家当主となっていた七世安井仙知に白番三目負となる。御城碁は寛政六年(一七九四)まで十三局を勤めている。烈元は元虎を跡目とする意志があったといわれるが、寛政七年に大阪で没する。享年三十五歳。烈元と養子縁組していたとする説もあるが、元虎が本因坊元虎を名乗ったとする資料は無い。これは十一世本因坊元丈の弟子である奥貫智策に関してもそうである。智策に関しては後述するが、智策に関しては本因坊家の菩提寺である本妙寺に墓が建立されていて跡目と同等の扱いであったことが分かる。元虎は大阪で没しているが、これが江戸で没していたら本妙寺に墓が建てられたのであろうか。もしそうなっていたら元虎が跡目として考えられていたという説も確実なものとなっていただろう。十世烈元と跡を継いだ十一世元丈の年齢差は二十五歳であり、元丈より十四歳上の元虎が間にいたとすれば継承年齢もバランスが取れているというのもこの説が唱えられる理由の一つである。
 烈元は元虎の死から三年後に宮重楽山(元丈)を跡目としている。
 河野元虎には著作として『碁則変』があったとされるが、刊行直前に没したこともあり現存していない。『坐隠談叢』には写本だけは遺されていたと記されている。その写本によると『碁則変』は礼・楽・射・御・書・数・不・老・長・生の十巻に分類され、隅の定石千三百余の変化を蒐集していたといわれる。さらに囲碁の起源から沿革など、あらゆる変化を記した著であったとされ、また碁勢論として、本因坊道策を碁聖と列し、仙角仙知を「最も古今の変化に長ず(最長古今變化)」と述べている。これら全てを元虎自らが執筆したと言われる。『坐隠談叢』の記述により明治時代には写本が存在していたと思われるが、現在では確認することができない。

坂口仙徳

黒 坂口仙徳 白 井上春達因碩 二三二手黒十三目勝
(安永元年十一月十七日 御城碁)

 坂口家は安井門下で安井家の外家である。
 『坐隠談叢』によると坂口仙徳は武蔵の人としているが、林裕氏が安井家過去帳を調査した際には仙徳の項は文字がかすれて読めなかったという。
 明和九年に五世安井春哲仙角の推挙によって六段で御城碁出仕が許される。年齢は明らかでないが、この年に長男の仙知は九歳となっていた。天明元年まで十年間に御城碁を勤め十一勝五敗の成績を挙げている。仙徳の没年は天明三年(一七八三)十一月三十日であることが安井家過去帳で判明している。
 
 仙徳は安井宗家の懇望により、長男仙知を養子として師家に差し出している。この仙知が安井家七世仙知であり、大仙知と呼ばれた人物である。
 坂口家は次男の仙寿が継ぐことになるが、仙寿は寛政六年正月三十日に没している。法名を誠信院釈仙寿居士という。
 
 坂口家の屋敷について触れておく。
 『東京市史稿』には坂口仙徳の亀井町拝領地(現・中央区日本橋小伝馬町)をめぐる文書が収められている。
 要約すると、以前は大奥年寄の拝領地であったが、本人の死去によるものか天明元年に「上り屋敷」(幕府の預地)となり、同年十一月、右屋敷三ツ割に相成て、うちの一区画の五十九坪余を仙徳が拝領したとある。仙徳は天明三年に病死し、拝領地は一旦は上り屋敷となるが、翌年三月には江戸町年寄へ管理が託されている。「倅仙壽」の拝領屋敷相続は認められなかったが、「往々家業相応ニも可相成」と、年若い仙寿の修行のために地代が充てられる措置がとられたと言われている。
 天明六年閏十月付の文書から地代の具体的内容がわかる。この五十九坪余は「地借一人」の借り受けで、仙徳旧宅であろうか一六・五坪の建家に住み、また八坪余について地守(土地の番人)が「役給に貰、致住居」とある。地代は月「銀三拾壱匁五分」であったが、「町入用高」(町の経費。地主への税も含む)を天引きされ、この年十三ヶ月分の仙寿への割り当ては約五十%減の「金三両一分二匁余」。地借一人ではやむなしだろうが、いささか寂しい奨学金であった。
 
 この「坂口家」であるが、後に七世安井仙知の門人が仙得の名を継ぎ三代目となるが、すんなりと相続できたわけではない。坂口家は仙寿のところいったん断絶し、仙得は新家を立てるという形で再興している。このことについては後に仙得のところで述べるが、仙寿は何か事件を起こし非業の最期を遂げたのではないかと考えられている。

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