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囲碁史記 第52回 井上幻庵因碩


井上家当主へ

 井上幻庵因碩は武門の生まれであったと言われている。寛政十年(一七九八)の生まれで橋本の姓を名乗っている。六歳で井上家の外家である服部因淑に入門し、文化六年、十二歳で初段となり因淑が当初名乗っていた因徹の名を与えられる。翌年には服部家の養子となり服部立徹と名を改めている。
 幻庵は本因坊丈和のライバルとして知られているが、立徹時代の最初のライバルは安井門下で一歳上の桜井知達であった。文化八年の立徹先番の手合から始まり、一年半後には互先に迫るまでになっている。知達との碁は四十局以上遺されており、そのすべてが『奕図』(後に因碩が著した棋書)に収められている。知達は十八歳で夭折している。因碩も残念がり「今秋知達不幸にして死す。少年十八歳。惜しいかな、秀徹にしてその才智曾て及ぶ者無し。嘆くべし」と述べている。
 その後、ライバルは十一歳上の丈和となり、囲碁史上に残る争いを繰り広げていくことになる。
 文政二年(一八一九)、立徹は九世井上因砂因碩の跡目となり、井上安節と名を改め五段で御城碁へ初出仕している。そのときの相手が本因坊元丈で、当時五段の因碩(安節)と八段の元丈は二子局であった。五段といえども七段の実力はありと言われていた因碩は、二子ならば八、九十手で中押し勝ちしてみせると周囲に豪語していたが、結果は一目勝ちであり、元丈にとってこの碁は負けたとはいえ有望な若手を二子で一目差まで追い詰めた「元丈一生の出来」と言われる名局となった。
 安節は文政七年(一八二四)に因砂因碩の隠居にともない因碩を継承し、六段へ昇段している。

ライバル丈和

 ライバルの丈和とは約七十局の碁が遺されいるが、そのほとんどは立徹時代のものであり、お互いに跡目になってからは対局数が激減し、当主になって以降はほとんど打たれなくなっている。お互い立場的に気軽に打つことができなくなってきたということもあるだろう。
 因碩は文政七年に二十七歳で井上家当主になったが、それまでの服部立徹と名乗っていた時代、跡目の井上安節を名乗っていた時代の時分の碁を「塵芥の如く」と言っている。この時代の碁は修行時代のもので、取るに足らないものである、因碩の碁を知りたければそれ以降のものを見るべし、という意味である。これは何を意味しているかといえば、丈和が『国技観光』という自身の打碁七十三局を収録した棋書を出版し、そのうち三十局が因碩とのものであったことから、この頃の碁は「芥の如し」で、これで因碩に勝ったとしている丈和を揶揄して言った言葉のようだ。
 そんな丈和との関係について、ここでは簡単に紹介しておく。詳しくは「文化文政の暗闘」「天保の内訌」そして「松平家の碁会」という囲碁史上の争いで紹介しているので、そちらをご覧いただきたい。

 文政十一年に丈和が八段準名人に昇段した際に、因碩も八段準名人となっている。
 同年、丈和が碁所願いを出しているが、因碩は安井知得仙知と共に反対し、丈和と知得仙知の間で争碁が打たれる事となる。しかし、知得仙知の病気などでなかなか日程が決まらなかったため、因碩が代わりに打つ事になるが、天保2年(1831)に突如、幕命により丈和は争碁が打たれる事無く名人碁所に就任している。これは丈和より八段昇段を約束された林元美が出身の水戸藩に依頼して幕閣へ働きかけたためと言われている。丈和は因碩に対しても六年後に地位を譲るという密約を交わして碁所を認める口上書を提出させていたが、いずれの約束も守らなかったため、他の家元と対立していく事となる。
 各家元は丈和を碁所の座から引きずり落とす機会をうかがっていたが、名人碁所は「お止め碁」と呼ばれる御城碁にて対局しなくても良いという慣習があったためなかなか機会は訪れなかった。そうした中、天保六年(一八三五)七月に老中松平周防守の屋敷で丈和を含め各家元跡目クラスが一堂に会する「松平家碁会」が開催される事になる。そこで因碩は成長著しい弟子の赤星因徹を丈和と対局させる事とする。丈和が負ければ碁所の資格はないと隠退を迫るつもりであったのだ。
 注目の一局は赤星優勢で進んでいったが、丈和は「丈和の三妙手」を繰り出し逆転勝利。終局後に赤星が血を吐き二か月後に亡くなったため、人々は因碩がある寺に丈和敗北の護摩祈禱を依頼したが、丈和の力が強すぎたため逆に因徹が血を吐いて亡くなったと噂したという。この一局は「吐血の局」と呼ばれる名局として現在も語り継がれている。
 その後、天保十年に林元美が丈和と交わした碁所就任の際の密約を公表したこともあり、丈和は碁所を返上し、先代元丈の子である丈策に家督を譲って引退している。

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