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ガンダムオタクから見たSEEDシリーズ(6)

SEED劇場版、SEED FREEDOMは大絶賛の嵐!noteにもSEED FREEDOMの感想、気づき、考察は多く記事に出ていますね。今回は私もいよいよ劇場版の感想を書こうと思っています。
(6)にしてやっと劇場版。SEEDシリーズの感想を書くのに、ここまで回を重ねることになるとは、思ってもいなかったです。
では早速……と、いきたいところですが、もう少し、前置きさせてください。劇場版評価の根底に関わることですので……。

私の記事『ガンダムオタクから見るSEEDシリーズ』最大の議題は『キャラ愛偏重主義による過剰な否定と擁護』これに尽きます。
もちろん、これまでのガンダムシリーズにも激しい否定と擁護はありました。
『初代ガンダム』しか認めない問題
『宇宙世紀シリーズ』しか認めない問題
『Gガンダム』をガンダムとして認めない問題
『∀』デザイン騒動

とはいえ、作品そのものの肯定と否定はあっても作品内で、一部キャラクターに対してここまで賛否両論激しく割れたことはなかったと思います。
カミーユに対して評価が割れやすいとかはありましたが、しかし、しかし、『キラ&ラクス』や『アスラン』『シン』ほど強烈にファンとアンチに割れるようなキャラクターはいなかったのではないでしょうか?
これは今までにいなかった、本来ガンダムなど興味なかった多くのファン層を獲得した作品だから起こり得た現象だと思います。

これまでのガンダムはモビルスーツ等メカのカッコ良さについてはもちろんのこと、作品背景にある政治や歴史、平和や戦争に対する考え方、ニュータイプとは何か?みたいな哲学、誰が強いか、何が強い、という強さの優劣については何度も何度も議論されてきました。社会構造や政治的理念の話題一つとっても各ガンダムシリーズに特徴がありました。その中でも個人的には『W』のテーマが興味深かったです。
『新機動戦記ガンダムW』は多様な極論がぶつかり合うぶっ壊れ感が観ていて楽しい作品でした。(※ギャグアニメとして観ても笑える、シリアスに観ればカッコいい、大谷翔平よろしく二刀流の作品!)
リリーナ、トレーズ、ドロシー、デキム、五飛など、みんな行き過ぎた正論(?笑)を掲げ、しかも、ちゃんと信念を行動で示してくれるので、子どもにも理解しやすく、話題も盛り上がったのを覚えています。
有言不実行のヒイロと妄言多めのカトルと謎の奇行を繰り返すゼクスは行ったり来たり常にフラフラしてましたが(笑)

キャラクターの話で盛り上がってしまい説得力に欠けてしまいましたが(すみません)、ガンダムを語るには政治的背景やメカニックのカッコよさ、哲学みたいなものを語らずにはいられない、というのが常だったのです。(私の周りでは)

……それが一部SEEDファン(もしくはアンチ)は、コーディネーターとナチュラルの関係や戦争について論じるというより、キャラクターの仕草や声優の話題、カップリング(キラアスとかアスカガとか)、キャラクター間の恋愛……話題はほぼそれ、ってくらい、ネットで見る感想や評価、そしてリアル私の周りでもそのような話題が多かったです。
確かにキラとフレイあたりからSEEDシリーズには恋愛要素が強く、またそこが盛り上がるポイントの一つだったのですが。もう、そういう目でしか見てない人もいるんじゃないか、ってくらいそればかり。
するとSEEDデスティニー観てても感想が違うわけです。「メイリンがあざとい」「アスランがカガリと別れてショック」「ムウとマリューがくっついてよかった」など。
(多くの場合に)政治とか戦争とかイデオロギーみたいな話がすっかりスルーされ、キャラ愛ばかり語られるのも、SEEDシリーズの特徴かもしれません。ガンダムでは珍しい?タイプです。
私には正直シンがステラを好きになる場面とか意味分からなかったですし、それよりも「Ζの設定なぞるのにザクとかドムとか違和感」とか「でもサイコと百式は出てくるんだ」とか、そっちの方が気になっていたので、周囲との話題が大きく乖離していました。
反対にズッシリそっち系の(社会的な)テーマに走った『スターゲイザー』は、私の周りでは男の子たちにはウケたけど、女の子たちはスルーって感じでした。「これ、SEEDの世界の話だよ」とオススメしましたが、「キラとかアスラン出てこないから観ない」って言われ、「ファントムペインが」「ストライクノワールが」とか話してみましたが、そこには関心ゼロの様子。SEEDのテーマに深く関わる内容だったと思うのですが、キャラ愛で観ている人たちには、なんにも響かなかったようです。

またSEEDシリーズにはアンチも多いのが特徴です。ラクスとキラ達は「ラクシズ」と言われて黒幕扱いされたり(元ネタはネオジオンのアクシズ)、一部ゲーム内でキラ達が一方的に悪者扱いされたり、インターネットの掲示板では、見る人によっては気分が悪くなる書き込みや攻撃的な意見が多々散見されます。他のガンダムシリーズみたいに「興味ないから見ない」とスルーしないで、あえて叩く、というのは、やはりどこかに愛があるから、という気がします。それがSEEDに対しての愛なのかガンダムシリーズに対しての愛なのか、違いはあるかもしれませんが……。SEEDシリーズは愛憎入り混じった争いが作品内外で起こっているわけです。

以上のことを踏まえ……いよいよ劇場版の感想を述べます。

『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』の感想

先ず、冒頭から高すぎる期待感に応えまくる緊張感と痛快な出撃シーンからジェットコースターのように激しく展開していくストーリー。戦闘シーンはとにかく見応えあり!後半デスティニーとインパルスが出撃するシーンや「忘れていないさ」のイザーク&ディアッカの台詞の重み、ラクスのメッセージが涙を誘い、モビルスーツ戦の激しいアクションはこれが見たかった!という期待を超えるものでした。

私は運良くほぼ初日で観ることができたので、驚きも連続でした。(ええ??こうなるの?おお!そうなる?うわー!きたー!)と怒涛のジェットストリームアタックを喰らいまくっている感覚。気がつけばあっという間にエンディングを迎えていました。

キャラの絵柄(変化した?)や動きが若干気になりましたが、ストーリーは流れも含め全体的にスッキリまとまっていて、DESTINYの時のような後味の悪さもなかったです。台詞も胸に響くものがたくさんあり、劇中のBGMも主題歌も音響もこれまでのSEEDらしく最高でした。SEEDシリーズの特徴として使われる音楽の素晴らしさが挙げられますね。毎回SEED音楽にハマります。

全体的に良かったものの、やはり気になる部分、最高とは言い難い場面もありました。
特に気になったところは中盤部分。ここはガンダムオタクならではの視点かもしれませんが……。
キラの葛藤とデュランダルの言葉が重なり「僕達は何も守れていない」という台詞は非常に良かったのですが……その後「ラクスが裏切った」から「僕は何もできない、ラクスを幸せにすることなんてできない、世界を平和にすることもできない……」の台詞のくだり。これを喜ぶ声も多いのですが、すみません、私はかなり残念に思いました。弱音を吐くこと自体は悪い事とは思いません。ただ、ポイントそこかよ!って思いました。
「そんな事をしたら世界はまた元の混迷の闇へと逆戻りだ」「再び混迷する世界を君はどうする?」と言ったデュランダルに銃口を向けたまま「覚悟はある!」と言ったキラ。そのキラの『覚悟』がまるで感じられない、別人とも思えるような情け無い態度。
前作DESTINYの最後、デュランダルを拘束ではなく殺害しようとしたのは、キラにその『覚悟』があったからですよね? レイ、タリアを間接的に死へと至らしめたのもキラに自由を選ぶ覚悟があったからですよね?
戦争は嫌いだけど、選べる明日が欲しいから戦う道を選んだ、という覚悟だったはず……。
レイはそのキラの覚悟を見たから、キラの明日を信じたから、愛するデュランダルを撃ってキラに明日を託したのですよね。
なのに……『覚悟』ってこんな簡単に捨てていいものなの?
あの時の言葉が本当なら、本当に覚悟がある人なら、例えラクスを敵に回しても、ラクスを倒してでも、戦いに負けるとしても、最後まで自由な明日の為に戦うのではないでしょうか?
もし、ベルリンで暴れ回るデストロイに乗っていたのが、ステラでなくラクスだったら?
ステラは撃てるけど、ラクスは撃てない?
もし、ヒイロ・ユイが隣にいたら「そんな覚悟で戦っていたのか?無駄だったな、これまでの犠牲者たちの死も」と言ったかもしれません。ルルーシュなら「撃っていいのは、撃たれる覚悟がある者だけだ!」と言ったかもしれません。
そしてこれを単純な殴り合いで解決、というのも残念でした。アスランから殴られたくらいで、「もっと頼れよ」の言葉くらいで目覚める程度の迷いだったの? 本当に覚悟あった?
「君たちが弱いから!」は私的には好きな台詞ですが、そこに対して誰も反論せず「もっと頼れよ」と言われても、キラ的には「いえ、ですからそう言われましても、弱い人たちなんかには頼れませんので!(苦笑)」と、なるのが自然ではないでしょうか?

この場面でシンがキラよりもアスランに怒るのも「はあ?」となりました。ステラを殺した相手がこんな弱音吐いてていいのか?レイの死を無駄にされてもいいのか?「一緒に戦おう」という言葉に感動したのではなかったのか?お前が好きだったのは、本当にこんなキラか!(←アスラン風)
過去に囚われた戦いを辞めたのは良いのですが、変なものを変だと感じられなければ、またいいように利用されてしまうと思います。ラクスに裏切られたショックに理解を示したのだとしても、精神操られておかしくなってたのはキラの方なのよ? 近くで見てたでしょ? 今回のシンはあまりにキラに従順過ぎません? まるで東邦学園に入って優しくなり過ぎた日向小次郎です。キラ違いですが、ここに吉良監督がいたら「お前は檻の中の牙を抜かれた虎だ」と言われたでしょう。

そしてキラ君!(←クルーゼ風)「ラクスが裏切った」とすぐに決めつけたのは浅はかすぎじゃないかい?本当に信頼関係があるなら「ラクスに何か考えがあるのかも」もしくは「ラクスの身に何かあったのでは?」と考えるのが普通じゃない?まさかオルフェの言葉間に受けてた?ラクスへの信頼ってそんなものなの?

とにかく、私が気になったのは、キラの戦う「覚悟」と、ラクスへの「信頼」の無さ(?そのように感じられた場面)です。これがクルーゼを倒した直後のSEEDの続編だったら理解できます。ですが、DESTINYの続編として観た場合、ちょっと違うでしょ!となってしまいます。
どこか達観した涼しい顔で、カガリを叱り、迷うアスランのセイバーを問答無用でバラバラにし、ハイネの死因を作り、自由が欲しくてラクスと共に戦争の道を選んだキラが、こんな風になる??

シンの従順さも、ある意味デュランダルの下で戦っていた時から変わっていないように思えました。デュランダルがキラにすり替わっただけで、命令に従って嬉々として戦果を上げるところは、なにも変わっていないのかもしれません。素直で真っ直ぐな性格の所以であるとも思いますが。
もっと自分で考え、自分で選択する場面があればシンの成長として見れたのに……。

関連してステラの魔獣化?シンを守ろうとステラが出てくるところまでは嬉しかったです。でも、変身した姿に「アレ?」となってしまいました。ステラなりに恐怖を具現化した形だったのかもしれませんが、もっと他になかったの?と、特に初見ではステラをバカにされているような気分にもなりました。二度目再視聴した時には、そこまで悪意が無いようにも感じましたので、つまり画力と時間の尺の問題なのか?とも思いました。(※ステラ登場の余韻に浸る間もなく即妖怪変化したので……。)
これがギャグシーンではなく、ガンダムシリーズ(というか富野作品)お決まりの「霊体含めた、みんなの想いの力による攻撃」なら文句言う人もいなかったと思います。「俺の身体をみんなに貸すぞ!」とか「みんなの力がガンダムに!」みたいに、シンとデスティニーの背後にこれまで死んでいったステラやレイ、マユ?たちの霊体がバーッと出てくるような演出だったら、ガンダムオタクとしては「ご馳走様です!」ってくらい満足したと思います。
とはいえ、その後のデスティニーSPECⅡの活躍にはおかわり何杯もしたくらいの凄まじいカタルシスが味わえました!満腹…満足です!

他には……勝敗の決定が性能の差ではない、と言ったものの圧倒的性能差による勝利を得ることや「ラクスの愛だ」という台詞。敢えてオルフェに突き刺さるように戦略的な発言をしたと受け取れば理解できますが、アスランとの友情による葛藤が初期のテーマにあって、仲間への信頼という中盤までのテーマが今回の映画にあって、何故最後にラクスの名前だけしか出てこないのか?
そこは「みんなの」と言ってほしかったです。少年漫画大好き、熱血ヒーロー好きならそう願うはずです。もう、そういうノリなので、って感じですかね? 

ただ、キャラクターの発言には二つのベクトルがあり、一つは物語内に登場するキャラクターへのベクトル、もう一つは視聴者へのメタ的なベクトルです。SEED FREEDOM終盤は、その後者、視聴者へのメタ的なベクトルに働く台詞が多かった気がします。

最終的にこの映画はこれまで私が論じてきたこの記事の議題『キャラ愛偏重主義』に応えたテーマのように感じました。
これまでずっと議論されてきたキャラクター愛の衝突、行きすぎた擁護と否定への答えが、ついにラクス様から語られたのです。

『必要だから愛するのではありません。愛するから必要なのです』

すべての愛憎入り混じったSEEDシリーズ関連の争いに終止符を打つ、明確な答えでした。

ムウのしたことが許せない、シンのしたことが許せない、キラのしたことが許せない、そう怒り渦巻く界隈に、響いたのではないでしょうか?
罪ある者は罰せられるべき、自分勝手なやつは消されるべき……ではない!そのキャラクターがそこに居るのは、そのキャラクターを必要とする誰かの愛があるから、なのですね。

結局キラたちはオルフェたちアコードを皆殺しにしました。愛と未来を説いて人を殺すのはどうかとも思いましたが、手加減していられないほどの強敵だったので、仕方ない、とも思います。
これでラクスを筆頭としたキラ達最強軍団に敵う相手はもういません。そういう観点では事実上、キラとラクスが世界の頂点となりました。その世界の頂点が『支配』とか『清浄なる……』みたいな言葉ではなく、『愛』を説く人物であることが救いといえるでしょう。

もう、何度も言うので呆れられるかもしれませんが、エンディング曲『去り際のロマンティクス』が最高過ぎます。seesawの破壊力。ラクスの最後のナレーションに被せて流れるメロディラインに涙腺崩壊でした。

あえていおう!SEEDシリーズは愛に溢れていると!

本当に長い間(こんなに長い文章なのに)
ご愛読ありがとうございました。

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