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《上町絵島》~山里に残る悲哀に満ちた踊り唄(長野県飯田市)

遠山霜月祭で知られる飯田市上村。秋葉街道の通る上村の中心地に上町宿がありました。この地の盆踊りは無伴奏で古風な唄に合わせて踊られてきました。その中に、江戸時代中期に起こった江島生島事件を題材とした《絵島》という踊り唄が残されています。

まつり伝承館 天伯内の《絵島》のコーナー

※本来は「江島」が正しく、物語などで「絵島」が使われるようです。この唄を伝える地元でも《絵島》の表記が使われていますので、本文では楽曲名には《絵島》で表記します。


唄の背景

江島生島事件
江島(1681~1741)とは、江戸時代大奥の年寄役の女性です。正徳4年(1714)年、将軍・徳川家継(1709~1716)の時代。将軍の母、月光院の名代で、徳川家菩提寺の増上寺へ墓参に歌舞伎小屋として知られた山村座の人気役者、生島新五郎(1671~1743)の芝居を見に出かけたところ、大奥の門限に間に合わず、結局、生島との「密通」の疑いをかけられ、江島は処分を受けることになってしまいました。
当時の大奥では、前将軍の家宣の正室、天英院を中心とする勢力と江島が仕える将軍の生母、月光院を中心とする勢力があったといいます。江島自身も、大変権力を誇っていましたが、このスキャンダルが引き金となって、緩んでいた大奥の規律の引き締めを図る意味もあって、数々の人間が処分されたのだそうです。ちなみに生島を箱に隠して大奥に連れ込んでの情事が発覚したというお話は、どうも創作のようです。
その後、山村座は廃絶、生島は三宅島(現東京都三宅村)への遠流(島流し)となりました。そして、江島も死罪であったところ、月光院の懇願により、幕府譜代である信濃国高遠藩幽閉、内藤家のお預けとなりました。江島34歳であったそうです。
高遠では、忍び返しの付いた塀に囲まれた屋敷で小さな8畳1間のみ与えられただけでした。食事は朝夕のみ一汁一菜、屋敷の外に出ることも許されず、紙と筆も与えられなかったといいます。この地で26年を過ごした江島は感冒のために看取る者なく、61年の生涯を閉じました。江戸の頃より日蓮宗を信仰していたことから、高遠にある日蓮宗の古刹、蓮華寺に埋葬されました。

菩提寺の蓮華寺に建てられた絵島像(長野県伊那市高遠)

また三宅島に流された生島は、その後赦免され、江戸へ戻って亡くなったとも、三宅島で亡くなったとも言われています。

全国に流行した絵島踊り
旧上村(現飯田市上村)は、かつて門村(かどむら)と呼ばれていました。秋葉街道の宿場でもあった上町(かみまち)の盆踊り唄には《よこばば踊り》《ノーサ踊り》《ショーガイノ踊り》《おんたけ山踊り》等があります。無伴奏で静かに歌い踊られるものです。この《絵島》もその1つで、右手に扇子を持って優雅な雰囲気で踊られます。
上村では、高遠に遠流となった絵島のイメージともの悲しい旋律とがマッチして、独立した楽曲《絵島節》としても歌われていくようになりましたが、本来は盆踊り唄です。

〽︎サァーエーノヤーレ
 絵島ゆえにこそ 門に立ち暮らすエー
 サァー見せてたもれよ 面影を

この踊り唄は、都節音階によるもの悲しく、哀愁に満ちた旋律です。
ところで、唄のルーツはどこなのでしょうか。上村から秋葉街道を北上すると、絵島が流された高遠にたどり着きます。そのため、絵島のことを歌ったものが伝わったのではないかと言われていますが、高遠ではこうした唄の伝承はないそうです。
しかし「絵島踊り」とか「江島踊り」といった踊り唄は、全国的にもあったようです。信州でも、この上村と木曽郡大桑村に残っています。他県のものは、地元以外ではあまり聴くことが少ないですが、哀愁に満ちた旋律で歌われることが多いようです。
例えば、東京都の伊豆七島の1つ、生島が流罪となった三宅島では、上村上町と雰囲気の似た《江島節》が残されています。

〽︎花の江島がナーヨーイ 唐糸なればヨー
 たぐり寄しょものナーヨーイ 膝元にヨー

この唄は、江島生島事件を材とする歌詞で歌われますが、各地では必ずしもそうではない歌詞で歌われていたところもありました。
高知県では《江島踊り》として、盆踊り口説のような唄が残っていますが、必ずしも「江島生島事件」を主題にしていないもののようです。
このように見てくると、「江島踊り」「江島節」といった唄は、「江島生島事件」を主題とするだけでなく、恋愛事件のようなストーリーを好んだ当時の庶民によって歌われたような感じがします。従って、《江島踊り》は必ずしもこの事件を歌ったものだけではないような気もします。
高知県の有名な《よさこい節》(高知県高知市)については、《江島節》が盆踊り唄となったものという説があります。

〽︎土佐の高知の 播磨屋橋で
 坊さんかんざし 買うを見た
 ヨサコイ ヨサコイ

この唄は、竹林寺の僧、純信がお馬に贈るかんざしを播磨屋橋で買ったといった恋愛事件を歌ったという伝説があります。「江島生島事件」とは関係はないものの、《江島節》が元であるとすれば、恋愛ストーリー民謡の《江島節》に純信お馬の恋愛事件の歌詞を読み込んだとすれば、案外つながらない話でもない気がします。
ちなみに、和歌山県有田市の「有田みかん摘み唄」を《江島節》と呼ぶそうですが、これは、浪人となった江島新之亟が有田にたどり着いて、みかん採りに雇われ、歌うようになったものといいますので、これについては「江島生島事件」とは関係はなさそうです。

盆踊り唄から哀歌へ
上町の《絵島踊り》は古くからよく知られ、昭和28年(1953)には全国民俗芸能大会(東京青年館)に出演しました。その推薦は、民俗学、芸能研究の三隅治雄博士でした。こうして上村の素朴な盆踊り唄が全国に知られていくようになります。
レコード化の早かったものとしては江村貞一による《江島節》がビクターから出されました。尺八伴奏によるもので、付けを伴わないソロで歌われています(楽曲名の表記は「絵島」ではなく「江島」でした)。
また、昭和52年(1977)には、《絵島》をベースにオーケストラ伴奏に仕立て、節回しもアレンジされた《絵島哀歌》が、金沢明子の演唱でビクターからレコードが発表されました。こちらは江島生島の物語を切々と歌い上げるようなアレンジで、舞踊などでも人気のテイクとなっていきました。
その後、昭和58年(1983)には、三味線演奏家の本條秀太郎の演唱による舞踊曲《花の江島》がコロムビアからレコード化されています。これは、本條秀太郎自身が構成されたもので、三宅村の《江島節》と上村の《絵島》をつなげて仕立てられています。伴奏も三味線、筝、鳴り物の入った邦楽調のしっとりとしたものとなっています。
こうして、《絵島哀歌》以来、このメロディが広まっていきます。民謡歌手も《絵島節》《信濃江島節》といった楽曲名で歌われるようになりました
す。


音楽的特徴

拍子
無拍節

音組織/音域
都節音階/1オクターブと3度

上町絵島の音域:1オクターブと3度

歌詞の構造 
詞型は甚句系の7775調です。
 [音頭]
〽︎サァーエーノヤーレ
 絵島ゆえにこそ 門に立ち暮らすエー
 [付け] 
 サァー見せてたもれよ 面影を

演奏形態

付け
※盆踊りでは上の句を音頭取りがソロで歌い、下の句を踊り手が歌います。独唱として1番を通して歌うこともできます。
※舞台用として尺八を伴奏に入れて歌うこともあります。

下記には《上町絵島》の楽譜を掲載しました。

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