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まあ蔵月に行く

 朝の6時55分の目覚まし時計でまあ蔵は目が覚めた。5分ほど横になって、それから歯を磨き昨日の朝のトーストの残りをかじった。残ったトーストはまた明日の朝食となる。

 煙草を2本吸い歯を磨いたところで丁度いつものように出発5分前だ。
 素早くカッターシャツとスーツを着る。
 昨日脱いだかたちそのままなので、着る時もシャツとスーツが一気に着られる。便利だ。
 そしてこれまたそのままになっているネクタイを首に巻いて締める。
 ヒゲはあんまり伸びないので頻繁には剃らない。水道水でぬらした頭の寝癖だけ押さえながら外へ出た。アパートの階段を降りながらスーツのポケットから腕時計を取り出し、左手にはめる。

 7時20分。大丈夫だ。遅刻しない。

 駅のトイレで寝癖のチェックをし、もう一度あたまの右側に水をつけ擦りながらホームへ向かう。人が楽しくもないのに行列を作っている。
 流れに身を任せて車内へ。40分ゆられて車外へ。もう一度車内へ。5分して車外へ。早足で会社の門をくぐり自分の席に着いて8時50分。  
 へへ。10分前行動ってやつよ。

「おはようございます。いつも1番ですね。」
「あ、おはようございます。月代さんのほうが早いでしょう。」

 へへへ。と笑って誤魔化すが、9時までの10分間はこのためにある。

 うちの会社は所長がほぼ直行で営業先に出かけるので、他の社員も9時の定時に来ないことが多い。
 月代さんは3ヶ月前くらいにうちの営業所にやって来た。それからいつも30分くらい前に出社してはトイレなぞの営業所の掃除をしているのだそうだ。
だから俺も早く来てそれを手伝う。

 何故かって?余計なことは聞くな。もっと早く行けばいいだろうって?それは無理だ。

「すいません。いつも手伝ってもらっちゃって。」
「あ、なんてことないですよ!こういうのは皆んなでやらないといけないですよ。他のひとたちも手伝うべきですよ!」

 こういう時にああ。俺だけしあわせになれたらいいのに。と思う。

 所長の机を拭いたふりだけして、二言三言実りのないをしているうちに他の社員たちもぞろぞろとやって来た。お前ら今すぐその入り口から出て行け。

「よーし。まあ蔵。同行行くぞー。」先輩の主原さんが2人の会話を止める。この人は悪い人ではないのだが、権力を持ってはいけない類いの人だ。
「おーい。準備できたかー。トイレ行ったかー。お前運転なー。」
出来れば黙ってて欲しいが無理だろう。
月代さんも自分の仕事の準備に入っている。

「行ってらっしゃい。気をつけてくださいね。」
月代さんが小さく手を振った。
バラが咲いた。

 月代さんが入社して3ヶ月とは言ったが、俺もこの会社に入ってまだ半年程で、その前はまあ夢に向かって生きていた。それもぱあっと散ってしまって現在の俺がいる。ここに入った当初はすぐにでも辞めてやらあ。くらいの勢いであったが、月代さんが来てからというもの俺は毎日が楽しい。本当に楽しい。

 彼氏はいない。そういうことは先輩方がさっさと聞いてくれる。

 俺の気持ちはまだ誰にも言っていない。言うと必ずネタにされ、お互いどうしようもなくなって気まずくなってしまうのが怖いからだ。そういうケースはよくある。しかもこの隣で寝ている男にでも話したらどえらいことになる。
 そっとしといてくれ。そして静かに見守っていておくれ。あれ?次どっち行くんだっけ。
「そこ右だぞ。」

まるで寝ているのにテレビのチャンネル変えると怒るオヤジのように主原は指を刺した。

 午前中車で2、3件回って会社に戻る。午後からの準備をしてまた出発する訳なのだけれど、全部準備して行けばいいものを一度戻ってからみんなで昼飯を食う。これが慣例になっていて、まあ仲が良いのと所長がいないから。という理由である。よって月代さんと。と思うのだが何故だか営業は営業で、事務所の人は事務所の人で飯を食う事になっている。なぜだか一緒には食べない。何故だ!

 午後の外回りが終わって、暗くなってから営業所に戻った。月代さんはもう帰っている。
かわりに所長がいた。あいさつだけして避けるように自分の机に向かおうとすると、利率とか何やらについてあれこれ言われる。

 どうも偉い人(会社全体から見たらそう偉くはないのだが。)と話すのは疲れる。偉い人がみんなそうなのか、そういう人が偉くなるのかは分からないが疲れた。こんな風では社会ではやっていけないなどとも言われた。

 あなたははそんな風にやっているから皆んなが避けるんでしょうね。そもそも社会ってなんですか?生き残るやつだけ生き残ればいいんですか?
 言いたいことも言えずに所長が帰るまでここに残らなければいけない。今日は経費削減とやらで10時に帰らされた。車で来ている人はまだ残っていた。

 朝8時50分。いつものように職場に着いた。いつもどうりだが会社には誰もいない。
あれ?トイレですか?風邪でもひいたかいな。
9時になって他の人たちが来てもいない。暫く冷静を装っていたが落ち着かない。ネエサン方に聞いてみた。

「あ、今日月代さん調子悪いんですかね。」
「あー。なんかねぇ。あの子急に結婚が決まったんだって。実家帰るんだって。」
「実家ってど、何処すか。」
「月だって。」
「月‼︎」


        暗転 

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