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兄弟という存在

亡き兄のことを何日か書いて、そして思い出して、、💦💦
幼い頃からあまり人を寄せ付けないタイプだったけど、
何か珍しい生き物を見つけたら、
私にちょっと来い!と言ってたね

兄からすると、すぐ下の妹が話題も合うし言うこと聞くから組みしやすかったんだろ😆


昭和の時代は一律に物がなく、貸本屋が唯一の遊び場。
TVなんか近所の理髪店の窓から
覗き見する程度👀

何をするにも外に出なきゃ遊ぶ物がなかった💦
ゴム製の手鞠など、持ってなかったので欲しくてたまらなかったなぁ😍

少し物持ちの友達の家にその子が目的なのか、ゴムの手毬が目的なのか?よく遊びに行って借りていた。

友達と遊ぶ約束しても、下の弟や妹を連れて行かないと親が許さなかったので、カルガモのように二人を連れて遊んで回ってた。

ある日、弟が友達の家で悪戯をしてその子の怒りを買った!
夕方近くになってたが、もう遊ばん‼️と言って戸をピシャリと閉められたこともあった😨
もちろん手鞠もさっと取り上げられてたねぇ(涙)

薄暗くなる道をアンタが悪そうするけん、私が怒られたろう💢と弟を叱ると、オレ何も言うとらんよ🙄
まだ学校にも上がってない末の妹は私が激昂するので泣き出す始末💦🤣😂

大概、友達を怒らせて遊びは「ハイ、お終い!」だった気がする🥲🥹

何で私だけ、こんな子守しながら遊ばなきゃいかんのか⁉️
でも昭和の30年代はみんなこんな家族やったよねぇ、その当時、私はよく思ってた(笑)

お父さんもお母さんも私まで産んだらやめときゃよかったのに!?
そうしたらお菓子の取り合いもケンカもしなくてよかったのに!って
貧乏人の子沢山!という言葉もこの頃覚えたっけ(苦笑)

子ども心にエンゲル係数や生存競争という言葉が頭を駆け巡ってた笑笑

家にはお金はないのに耐えず誰か来ていた。
今思えば居候?
なぜか女性が母方の親戚?と聞かされてたけど2年ほど同居してたなぁ
貧乏人でも面倒見が良かったんやろ「不思議なおばちゃんっぽいお姉ちゃん」が居てくれたおかげで、一時期助けられてた、
まず台所をしなくていい、母が病弱だったので、私なりに夕飯の支度をしていたんだ😀

彼女が台所に立つときは思う存分遊べた気がする。

また弟が手が要るから、しばらく預かってと言われてお兄ちゃんになる小3の男児を預かったことも
あったよねぇ。
弟たち、覚えてるかな?
今度聞いてみよう

子ども心に何だったのか?どんな関係の子やったのか?
今となってはわからんけど、
身体は5尺もない小さな身体だったけど、母の心は気前よかった!
向こう三軒両隣の精神が強かったんだろ😀

今でいう「おまかせ会員」「お願い会員」のはしりだったのでは⁉️

#貧しいけど
#心は錦
#来るもの拒まず

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