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まさかの合格が苦難への道に

今は大学院への進学はそう珍しくない。
特に理系では修士が当たり前のことになっている。
私たちの時代は、インテリで裕福な家庭は別だったが、文系の場合は採用試験に失敗した教職浪人は別としてそれなりの覚悟がいった。
当時は石油ショックの時代で、普通の就職も教員採用も難しかった。
私は4人兄弟の長男であり、親には弟たちの学費がまだ必要で、私に大学院までの学費を与える余裕などなかった。
親戚の叔父には大学院へ進学することで、親不孝者として強く叱られたりした。
しかし、両親には支援して貰えなかったが反対はされなかった。
私が大学受験に失敗して、卑屈になっていたことを知っていたからだ。
ただ、母親にはあれだけ勉強が嫌いだったのに、研究したいというのは不思議だと言われた。
大学受験勉強もまともにせずに、バンド活動に明け暮れていたことをよく知っていたからだ。

そもそも、大学に入った時には大学院などに行くつもりなどなかった。
南西諸島でのフィールドワークを続けている内にどうしてももっとやりたいと思うようになったのだ。
本来文系の研究者は文献を読みこなせる力が必要で、デスクワークがちゃんと出来ねばならない。
ところが、私はどちらかというとフィールドに出て、現地の人との関わりの中から学ぶのが好きだった。
私はそのデスクワークの基本が確立できていない状態で、大学院の入試に臨んでいた。
当時の南西諸島の村落調査は学生の場合は、ゼミなどの実習として教員の指導の下にするのが普通だった。
それを、自分たちは教員抜きで実施したのだった。
以前の研究会では、南西諸島のとある島の調査など教員も加わっていたのだが、自分たちがいた頃は教員は加わらないのが普通だった。

調査に関するテクニックや内容は勉強会を持ったが、特にα教授の研究室で先生に教わりながら行ったりした。
ところが、α先生は細かいことを指摘してくれたりもしたが、知らないうちに眠ってしまっていることもたびたびだった。
自分たちは、学科の若手のβ先生やθ先生の研究室に押しかけていったりして、色々教わった。
特に、そういう若手の先生は飲みに連れて行ってくれて、食べさせてくれたり飲ませてくれて、その中で厳しい指導を受けていた。
時には、学科の先生は私のアパートでの飲み会にも参加してくれて、関わりを深めていた。

私が北山大学の大学院ではなく、東京の八雲大学を目指したのは、学科の先生の大半はこの大学院出身で、進学するのならそちらをと強く奨められた。
北山大学の方へは、博士課程在籍の一郎さんや東大大学院出身のδ先生から奨められて迷ったりした。
ただでさえ大学院を出て就職がなかった頃なので、少しでも就職の可能性がある方を選んだ。
しかし、私の実力では入るのに3年はかかるだろうと、β先生からは言われていた。
それは、かつてそれくらい何度も受験して入った人は、私よりも偏差値の高い大学の出身者だったのもその理由だった。
そもそも、学部時代にフィールドワークを中心に活動している学生は、民俗学を除いてあまりいなかった。
ゼミの指導教官であったβ先生は私の論文作成能力の低さをよく知っていたので、そう言ったのだろうと思う。

私もその覚悟で、大学は留年か卒業して1年間は、働きながら受験勉強して学資を稼ぐつもりでいた。
夏休みにフランス語の勉強を中心に、外国語講読の勉強はするにはしたが、専門的な基礎知識もしっかりはしていなかった。
だから、本番では出来た自信も無く、1次試験では落ちたと思い、その夜は東京にいる大学の先輩としたこま飲んで次の日は二日酔い状態だった。
翌日は、すぐに帰るための重いバッグを持って、一次試験の結果を見に行って我が目を疑った。
なんと、一次の合格の3人に入っていた。
二次の面接を受けた後で、他のふたりと話をしたが、他のふたりは立派な国立大学の学生で私だけ三流の私学だった。
二次の面接でよく憶えているのは、X先生が「就職ないよ どうする」と言われたので、「どうにかなるでしょう」と答えたことだ。
たぶん、合格したのはその図太さがあれば、就職がなくても何とか生きていけると思われたからだと思う。
そして何よりも後にω先生から飲んだ席で「君は 修士だけということで とったんだ」と言われた。
これは始めから私を研究者に育てる考えが、ω先生には無かったことを意味していた。
因みにω先生は後に文化人類学の大博物館の館長になられた立派な方だ。

私は合格すると思っていなかったので、最初から卒論のために南西諸島での調査を計画していて、二次の合格発表も待たずに旅に出た。
それが大きな間違いで、合格したらすぐに予約奨学金の申請の手続きをすべきだったのだ。
二人合格の一人になったのだから喜ばしいことだったが、結果的に予期せぬ合格がかなと私に試練を与えることになった。
というのは、ふたりの住む距離は益々遠くなり、これまでのように簡単に逢えなくなることになった。
私は、手持ちも少なく、奨学金も無しに学費を全額工面せねばならない状態になったのだ。
大学の時は、途中からでも特別奨学金を貰うことができたこともあって、しっかり考えておかねばならない奨学金のことが頭から抜けていた。
自分が大学時代に何とかやってこられたのは、奨学金があったからなのに、進学に関してはまず第一に考えるべきだったのだ。
入学後にも募集が一人だけあったが、競争相手の家は都内での自営業であり年収的には額面でうちの半分程度で、私が落とされた。
今年は大学院に受かるはずもないと、準備を怠ったことが、結果的には致命的なミスとなってしまった。
まさしく人間万事塞翁が馬であった。


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