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三島清円「門徒ことば」法蔵館

県立図書館でぱらぱらと手に取ってみていたら、俺の永遠の師である鈴木大拙の名前が出ていたので、一気に読んでしまった。浄土真宗とは何の縁もゆかりもないが、こういう偶然の出会いはいろんなスペクトラムがあっていい。引用の中には南北線戦争時の無名戦士の詩があったりシューマッハーの話が出たりとなかなか面白かった。

浄土真宗の教えの相続には2つの流れがあるのだそうだ。一つは本山→末寺→門徒、一つは親から子や孫に伝わること。しかし、後者の流れが現在では消滅の危機を迎えている・・・。その危機感を背景に門徒が語った内容をまとめたという趣旨になっている。

<メモ>
・あさましい
真宗の篤信者を「妙好人」というが、明治の妙好人である浅原才市の詩にも「あさまし」が随所に登場する。妙好人を世界に紹介した鈴木大拙は、「あさまし」を「慚愧」、「ありがたい」を「歓喜」と捉え、この慚愧と歓喜の寄せては返す波のような信仰感情を「あさましいからありがたく、ありがたいからあさましいのだ」として念仏者の宗教経験を解き明かされている。

・あたわり
「あたわり」とはすべて最初から与えられている、または備わっているという意味だ。「ああなったらいいのに、こうなったらいいのに、あれが欲しい、これが欲しい」と煩悶する以前に「わが身はお返しできないほどすでに与えられてここにいるではないか」といううなずきが「あたわり」なのだ。

・お手廻し
「如来のお救い」を意味するこの言葉は、「ご催促」という言葉と同じ文脈で登場することが多かった。今日の自分を仏はかねてより見そなわして、今日のわたしのためにその教えをすでにご用意してあったのだ・・・という深いうなずきが「お手廻し」であった。
これに関連して、南北戦争時に負傷した南軍の無名戦士が病院の壁に残した詩が紹介されている。

 大きなことを成し遂げるために 
 力を与えてほしいと神に求めたのに
 謙譲を学ぶように拙さを授かった

 偉大なことができるように
 健康を求めたのに
 より良きことをするようにと
 病気を授かった

 幸せになろうとして富を求めたのに
 賢明であるようにと貧困を授かった

 世の人々の賞賛を得ようとして
 成功を求めたのに
 傲慢にならないようにと
 失敗を授かった
 
 求めたものは一つとして
 与えられなかったが
 願いはすべて聞き届けられた

・如来さま
「如来」の如というのは「真如」すなわち真実という意味である。その真実から衆生のところまで来たるものを「如来」という。
昭和31年に親鸞聖人七百回御遠忌の記念事業として「教行信証」の英訳が開始され、その翻訳を遺体された鈴木大拙氏は「本願」を「prayer」(いのり)と訳された。そして、それまでは「practice」(修行)と訳されていた「行」を「living」すなわち「生きること」に訳した。これはどういう意味かと言えば「念仏者とは阿弥陀のいのりを生きるものだ」ということになる。さらに言えば「念仏者とは如来と共にこの苦悩の人生を歩み切るものだ」ということになる。至極名訳である。

・屏風の向こうも明日の天気もわからん者が
わたしたちの耳は聞きたいことを聞きたいようにしか聞かず、目は見たいものをみたいようにしか見ない。それは、どこまで枝を広げても結局は鉢の中の盆栽であるのと同じことだ。そこに知性の限界がある。
にもかかわらず、そのわずかばかりの知見をもって、屏風の向こうも知れたものとたかをくくっている。そこにわたしたちの誤謬と無明性がある。


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