見出し画像

昭和初期の相撲界と双葉山・2

合併相撲の結果大阪方の幕内は大半は降格となった。事実上大阪相撲の吸収合併だった。その中で昭和の相撲が幕を開けた。
東西合併最初の場所となった昭和2年一月は大阪相撲の前評判を覆し横綱宮城山が優勝した。このとき32歳で全盛期は過ぎておりその後も「弱い横綱」と言われただけにご祝儀優勝という話もあった。

それ以上に変わったのが場所数が増えたこと。これまで1月と5月の年2場所だったのが3月と9月も加えて4場所制になった。これは大阪相撲の廃止で関西に大相撲がなくなったことを埋める目的だった。開催地は大阪だけではなく京都名古屋広島福岡まであり地方場所の意味合いも強かった。

4場所制は昭和7年まで24場所続いた。昭和2年と3年は地方独自の番付とした。これは地方場所は本場所ではなく準場所という意味合いも強かった。事実相撲博物館によれば資料の扱いを見るに地方場所は軽視されていたようだ。当時の力士の談話でも本場所とは違うといった趣旨の発言がある。確かに地方場所は意外な力士の優勝もままある。しかしこの独自の番付は問題が多く4年より2場所の成績の合計で番付編成となった。

2年~3年の番付は混乱していた。東京は東京、地方は地方の成績で番付を作っていたためである。そのためおかしなケースが出てきた。一番の例が潮ヶ濱のケース。

昭和2年1月(両国) 東十両4枚目 2勝4敗
3月場所(大阪) 東十両4枚目 6勝5敗
5月場所(東京) 東十両12枚目 2勝4敗
10月場所(京都) 西十両3枚目 8勝3敗
昭和3年1月(両国) 東幕下7枚目 1勝2敗
3月 (名古屋) 東前頭11枚目 3勝8敗

勝ち越し負け越しの繰り返し。東京は負け越しで関西は勝ち越しである。このため昭和3年1月は十両陥落で幕下7枚目でも負け越しだが一転3月場所(関西)は新入幕となった。事情を知らない後世から見ると幕下で負け越しの力士が入幕している奇妙な番付となった。

他にも大関能代潟が8勝→4勝→3勝→10勝→3勝→10勝(優勝)と乱高下に近い成績であった。

このようなことは現代にもあり麒麟児は昭和56名古屋から59九州まで地方で勝ち越し東京で負け越しを繰り返した。麒麟児がこの時代にいれば地方では大関だが東京では幕下三段目落ちだろう。さらに直近で休場の炎鵬もおととし九州より勝ち越し負け越しのヌケヌケだった。地方成績では幕内上位にきそうだが東京では幕下落ちと極端である。

このため昭和4年より2場所の成績をもとに東京場所の番付を編成することになった。試行錯誤の混乱の中双葉山は昭和2年3月に初土俵を踏んだのである。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?