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陸奥の初代

陸奥部屋から大関霧馬山改め霧島が誕生。64歳の師匠陸奥にとっては定年まで1年を切った中で最後に大輪の花を咲かせたか。これまで育った関取はほとんど移籍の弟子で直弟子は八百長問題で引退の霧の若だけであった。それだけに喜びが大きいのだろう。

年寄陸奥は江戸時代から連綿と続く年寄名跡の中で比較的歴史が浅く明治期の創設である。

「年寄名跡の代々 陸奥代々の巻」(雑誌相撲平成3年4月号)を参考にすると初代は明治3年に現役兼務で年寄となった幕下の深川次郎吉である。これまでにも現役で陸奥を名乗った力士は数人いるがいずれも年寄ではない。三千奥とも書かれたがムツと呼ばれることを嫌っていたのが大きいとされる。

この深川という力士、履歴に謎がある。まずは土俵歴。駒ヶ嶽を名乗って弘化4年2月序ノ口に出た。その後所縁山に改名し安政2年2月幕下二段目に上がり、仙台頭書となる。文久3年7月の場所中に深川となり、明治3年11月の場所中に陸奥に改名し、明治4年3月限り引退した。幕下二段目に32場所在位し、幕下二段目12枚目が最高位の平凡な力士だった。当時はこの程度の実績でも年寄として残る例は多い。

年寄としては弟子養成もしたものの目立った力士は出なかった。明治25年8月25日に亡くなった。

とここまでだが疑問を投げかけるのは履歴である。出身地に異説があり安政時代に発行の「相撲金剛傳」によれば奥州栗原郡田尻村(現在の大崎市田尻町周辺)とある。しかし墓所(谷中妙円寺)には秋田県下仙北郡楢岡村之産とあり全く違う。

四股名の駒ヶ嶽や所縁山は仙台周辺の力士が名乗るとのこと。番付頭書も上記の通り仙台で、陸奥の名乗りも秋田県出身としては不自然である。

生年や本名は明治23年6月の年寄連名(桟敷契約証書)には26人目に佐藤辨治、肆拾陸年壱箇月とある。46歳1か月ということだがそうなると天保15年5月生まれで序ノ口に出たのが数え4歳となり全く合わない。

桟敷契約証書は相撲協会と茶屋の間で交わされ、役所に提出の文書で誤謬は訂正されている。公文書であり他の相撲資料より信憑性は高いようだ。

年齢が正しければ明治25年に48歳没となるが戒名には翁の字が入っている。翁は老人の意味があり当時では60歳以上の人につけるのが通例でこの点でも不思議である。年齢が20歳ほど違うのであれば疑義はないのだが。

2人の陸奥がいて混同されている可能性もあるが巡業番付や連名の順位からもその可能性は低いようだ。単なる年齢ミスとしても出身地の相違は全く説明がつかない。違う人物が途中ですり替わるように襲名したのだろうか。あるいは何らかの不都合により履歴を使い分けていたのか。

明治期に入っても現役時代の四股名が不明であったり短期間で姿を消した年寄が確認されている。当時の番付には年寄全員の名を記載していないことが最も大きな要因で、本場所には全員の年寄名を書いた御免札が掲示されたが現存しているものはなく書き写されたものがわずかに残るのみである。相撲史のミステリーはまだまだ多い。


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