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異国の地に消えた横綱

昨年の雑誌相撲7月号に東京相撲で大関→京都相撲へ移り横綱となった大碇の消息が判明したと記事があった。相撲史としては久々の大発見ともいえるが、そもそも大碇が然程知られてないためか話題とならなかった。

歴史から忘れられたとされる横綱は数名名前が出るが大碇もその一人だろう。その要因として京都相撲というマイナーな興行組織の横綱、吉田司家の公認ではないことが大きい。

京都相撲という興行は江戸時代まで三都で興行を打つなど東京大阪に並ぶ興行基盤があった。しかし明治期より衰退が著しく、合併相撲や東京相撲の脱走力士を迎え入れ何とか命脈を保っている状態であった。

その中救世主として期待されたのが大碇。明治2年に生まれ、東京相撲で初土俵を踏み明治26年新入幕。一貫して押し相撲を貫き、独特の押しに定評があり負け越しなく明治28年大関となった。しかし勝ち越したにもかかわらず降格されたことに腹を立て京都へ脱走しぞろ大関となった。一時東京に復帰したが大敗して再度脱走。五条家より横綱免許も許されたが所詮お山の大将で相変わらずの状態。苦しい状況は変わらず合併相撲や巡業で食いつないでいた。明治43年に日英博覧会での公演の話があり、これを機運に京都相撲を復活させたい思いもあってか一派はひと月以上かけ渡英した。半年間ジャパニーズ相撲の型を実演。余談だがこれは公式な出品ではなく余興の一つであって公式記録からは省かれているというのが残念である。

その後欲が出たか一部の力士が帰国したものの大半が帰国せず残って欧州各地を巡業、順調とはいかず途中仲間割れもあって分散してしまった。当時熊と相撲を取る老人の相撲取りがいたという話もある。ピエロのようになっていたのかもしれない。その後大碇と鳳凰(京都大関、元東京幕下の勢イ)は南米にわたり事業をしていたことまで知られていた。しかしその最後はわからず大正中期に亡くなった、一部の書籍には昭和初期に東京の小菅刑務所に収容されたというものもあった。

大碇の消息を伝えたのは当時ブラジル在住の日本人向け新聞として発行されていた日伯新聞である。昭和5年2月の死亡広告に「日比紋太郎(旧横綱大鳳)~一月廿七日薬石効なく死亡」とあり友人代表として数名の名前が記されている。日英博覧会から20年の月日が経ち、ブラジルで昭和5年に満60歳で亡くなっていた。晩年は事業に失敗し病気療養していたのだろう。孤独ではなかったのが救いである。
華々しい土俵をみせた力士の裏でひっそりと散っていった力士がいた。明治~大正の過渡期に忘れられた相撲史の裏面の一つである。

日伯新聞はネット上で閲覧できる。昭和5年2月13日付の7面に記載があった。

https://rakusai.nichibun.ac.jp/hoji/contents/NippakShimbun/PDF/1930/02/19300213npa10.pdf

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