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霧島で考える大関の記録~大正の大関~

名古屋場所。出だしからこけそうだ。新大関霧島が休場。右肋骨骨挫傷とのこと。ずっと痛み止めで我慢していたようだが。

新大関の初日不戦敗は昭和以降初とのこと。またまた不名誉な記録が出てしまった。

大正以前はどうか。ざっと見ると大正4春に新大関朝潮がいきなり休場している。当時は相手の休みは自分も休みの時代だが負傷休場だろう。6日目より出場し緑島と引分、翌日は大蛇潟に敗れ再度休場、0勝1敗1分8休で終わっている。朝潮は翌場所7連勝と絶好調だが8日目大錦に敗れ残り2日休場(資料によると鼻血らしい)、太刀山の天下で優勝は厳しい時代だが惜しかった。以後年齢もあり平凡な土俵に終わり大正8年40歳で引退。取締を長く務め、アウトロー横綱前田山を育てた高砂である。自身の豪傑さを含め朝青龍の源流か。同時代の横綱大関陣の短命ぶりをよそに82歳の長命を保った。まさに豪傑。


その後大正7夏の九州山も初日浦ノ濱に勝利したが、2日目弥高山に引き分けで以後休場。次場所五分ながら小結に落とされた(入れ替わりに昇進の對馬洋も2場所で陥落)。この時代は興行政策上からか強引な昇進や編成が目立つ。九州山の大関も東西に大関を揃えるという均衡を重視したようだ。

前述の朝潮も休場と勝越しの繰り返しながら横綱昇進の話まであったというから現在以上に無茶苦茶であった。横綱大関の頭数さえ揃えば興行が上手くいくと高を括っていたのではないか。

強豪の大錦や栃木山の陰に隠れているが、同時期の横綱鳳、西ノ海2、大関千葉ヶ崎、伊勢ノ濱はいずれも成績が振るわない。千葉ヶ崎、伊勢ノ濱は不可解な据え置きを以前検証した。粗製濫造が生んだ二流横綱・大関といえる。時代が生んだ悲劇か。


霧島に戻すと新大関で全休となれば武双山以来23年ぶり。武双山は角番の平12名で4勝11敗、あえなく陥落した。関脇で10勝を挙げ復帰したが以後4年の大関生活で11勝が1度と低空だった。特に晩年は角番・角番脱出の繰り返しで強い大関のイメージはない。武双山の全盛期は平成6~8年程だろう。ここのところ多い大関昇進で全力を使い余力を残せなかったパターンのさきがけか。霧島の場合、先場所序盤に逆転勝ちが多いのが気になった。どうなる?


貴景勝と合わせ2大関揃ったとはいえ休場では意味がない。新大関がこの数場所で2~3人昇進しそう(させそう)だがどの力士も疲労が重なっているのは確実で大関で破綻するというのが最も悪い流れになる。大関を揃えること以上に吟味が必要ではないか。


他にも休場力士が多い。初日から序ノ口まで34人(+霧島で35人)。十両以上も初日として多く巡業の過密で休養期間が十分とれないこともあるのではないか。序ノ口は番付に43人だが10人休場で33人。番付以上に力士数の減少を感じるのはこのためだ。千秋楽までに幕下以下は各地位の1~2割が休場の計算となる。


内容の充実、自覚といっても百年河清を俟つに等しいもの。初日見てもあまりいい予感がない。

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